最後の女神




愚か者

 とがめられるんじゃないかってびくびくしながら家に戻ったけれど、ごまかすのはそれほど難しい話ではなかった。
「ついでに古本屋に回って立ち読み始めたら、あっという間に時間が過ぎちゃって」
 そうやって言い訳をするわたしを誰もとがめようとはしなかった。
「ほら、結。これはやったことないって言ってたでしょ」
「わ、ありがと!」
 中古のゲームを買って帰ったから、置いて行った結の機嫌もあっという間によくなった。

「直哉君はどうしているの?」
 母の口から出た彼の名に一瞬身体が強張る。
「それがわからないのよ。ちょっと出かけてくるってメールはあったんだけど。夕食どうするのかも決めてないのよねー」
「わたしはもうお腹いっぱい。静は?」
「んー、おせちの残りってある? あとお餅焼こうかなー」
 元旦の夕食なんてこんなものだ。朝からだらだらと食べているから、夜になるともう何も入らなくなってしまう。

「明日は家で駅伝見ましょうねー。みかん、大量に買ってあるから」
 夕方近くになって伯父さんと伯母さんは隣家へと戻っていく。
 明日桑原家ということは、明後日はまた家集合かな。何となくどちらの家に集まるのかまで読めるようになってしまった。
 明日、直哉はいるのかな。寝ているかな、それとも出かけてしまうかな……頭の中は彼のことでいっぱいで、親の前で態度に出さないでいるのが難しかった。

 いくら頭の中が彼でいっぱいでも、一方通行じゃどうしようもない。
 愚かなわたしがそれに気づくまでそれほど長いことはかからなかった。
 この年の年始、わたしと彼が顔を合わせたのは一日のみ。それからわたしが寮に戻る日まで、彼と顔を合わせることはなかった。
 毎日のように彼はどこかに出かけていたし、彼女が予定を早めて戻ってきたのかもしれない。そうやって自分を追い込むことで、どうにか自我を保とうとしたけれど、無駄なことだった。

◆ ◆ ◆

 わたしは、卑怯者だ。
 直哉との関係を持つようになって、何度この言葉が頭を横切ったことだろう。
 自分に付き合っている人がいるとして、その人が他の女性と関係を持っていたとしたら――許すことなんてできそうにない。
 けれど、わたしは、というと直哉との関係にずるずるとのめり込んでいた。他の人と彼を比べることなんてできない。
 だって、気がついたら好きになっていた人――生まれた時から目の前にいた人。
 報われなくても側にいられるだけでいいから、なんて大馬鹿者だ。「悲劇のヒロインを気どっている」と誰かに言われたら、本気でその人を殴ろうとしただろうけれど、実際にわたしは悲劇のヒロインなのだと信じ込んでいた。
 わたしと直哉の関係が知られたら、両家の関係が崩れることになってしまうから。

 季節が変わって大学の二年生に進級した頃、洋治君は就職活動が忙しいとかで大学にもサークルにもほとんど顔を出すことはなくなっていた。
 おかげでわたしがサークルに顔を出しにくくなることもなくて、別れたと後も有紀ちゃんと一緒にたまり場にしょっちゅう行っていた。

「洋治と別れたなら誰か紹介しようか?」
「ううん、いいです。今は……そういう気にならなくて」
「若いのにもったいねー。よし、彼氏が欲しくなったら俺に言え。付き合ってやるから」
「その時はお願いしますよ」
 そんな風にたまり場で先輩と軽口をたたくことができる。その程度にはわたしも元気を取り戻していた。
 洋治君と別れても、他の人と付き合うなんて考えてもみなかった。

 直哉の側にいられれば、それでいい。最初はそう思っていたくせに、人間なんてどんどん欲張りになっていくものだ。
「ねえ、直哉兄さん」
 勇気を振り絞って口にしたのは、ゴールデンウィークが終わって少し落ち着いた頃だった。
「わたしのこと、どう思ってる?」
 その日使っていたのは、茗田駅じゃなくて、新宿のホテル街の中の一軒だった。彼が定時で上がれたという理由で、急に呼び出しの電話をかけてきたのだ。
 その日アルバイトは休みで、友達と遊ぶ約束をしていたけれどそれをキャンセルして直哉の誘いに乗ったのだった。

「……それを聞いてどうする?」
「だって、気になるじゃない?」
 視線をそらせたのは、自分が越えてはいけない領域を超えようとしている自覚。
「直哉兄さん、彼女いるんでしょ。じゃあ、なぜわたしを呼び出すの?」
「ばーか」
 わたしの顔を覗き込む彼の顔は、どこか歪んでいた。
「お前が都合いいから、に決まってるだろ。今日は彼女残業なんだよ。ヤりたい時に呼び出せないから、社会人は都合が悪いよな」
「……そっか」
 都合のいい女。それは十九のわたしが背負うには少し重すぎた。自分から進んでその道に飛び込んでいるわけだけれど。

「じゃあ、彼女がいなくなったらもう少し会える?」
「必要か?」
「必要。だって、足りないもん」
 わたしの顔はどうだろう。ちゃんと笑えているだろうか。ものすごく馬鹿に見えればいいと思いながら、わたしは笑みを作る。
「セックスするの気持ちいいのに、今なんて月に一度でしょ。足りるはず、ないじゃない」
 セックスに夢中の、身体だけの、大馬鹿者。それでもいい。わずかな繋がりでも、いとことは違う関係で彼の側にいたかった。ただのいとこ相手にキスしたりなんて誰もしない。
「こんな淫乱に誰がしたんだろうな?」
 あきれた様な彼の声。
「あなたがしたんじゃない。最初から最後まで、全部教えたのはあなたでしょ」
「生徒の物覚えがよすぎたな、俺の身体がもたねーだろ。週末には彼女と会うんだよ」
 週末、彼女。わたしには与えられない時間、与えられない立場。いい加減慣れてもよさそうなのに、自分からぐりぐりと傷口を抉りにいくのはやめられない。
「つまり、おじさんだから今日はもうできない、と。じゃあ帰ろうかなー」
 ホテルに入ってから、二回したので十分と言えば十分な回数だ。そろそろチェックアウトの時間も迫っている。
「シャワー浴びてこようっと」
 ベッドから抜け出そうとするわたしの腕を直哉が捉えた。
「一時間延長するから」
 自分からフロントに電話して、直哉は延長を申し込んでいた。
「えー、門限に遅れる!」
「大丈夫だろ。お前が門限に遅れるなら、俺なんて帰れないっつーの」
 わたしは寮に入ったけれど、直哉は実家にいるから、都内まで通勤するのに一時間以上かかる。それでも、自分で家事をするよりははるかに楽なのだと前に自分で言っていたっけ。

「遅れたら責任取ってよね」
「久しぶりにいとこに会って食事させてたら、うっかり時間過ぎましたって寮長に言ってやる」
「はは、耳くすぐったい」
 ぎゅっとシーツに押し付けられて耳を齧られる。ついさっきまで貪欲に快楽を貪っていた身体は、火がつくのも早い。
「もう、だめ……」
 潤んだ目で見つめれば、彼の方もあっという間に欲望に火がつく。どうすれば、彼を煽ることができるのかなんてとっくに飲み込んでいた。

 目を見つめたまま、手を下の方に滑らせていく。まだ柔らかなそれを片手で包み込んだ。
「これで、もう一度大丈夫なの?」
「できるできる。静が頑張ればな」
 わたしは挑発的に舌を突き出した。ゆっくりと唇を舐めて、そうしながら、下に伸ばした手を優しく動かす。
「……口でやれよ」
 言われるままに身体を下にずらす。彼が下に、わたしが上になるように体勢を入れ替えた。
 口の中に柔らかな彼自身を含む。舌で刺激してやると、少しずつ硬くなってきた。十分なそれを唇で包み込む。
 準備ができたところで、身体の位置をずらす。自分からまたがって腰を落とすと、直哉は満足そうに息をついた。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ