最後の女神




年に一度の

 自分の居間にいたリティシアは、窓の外に目をやった。庭園の木は、早くも色を変え始めている。ローザニアの王都ローウィーナよりだいぶ北にあるマイスナートの木々は、もう葉を落としている頃だろうか。

 来客を告げられ、立ち上がったリティシアの髪は、今日は首の後ろで束ねられていた。秋らしい葡萄色のドレスと同じ色のリボンを髪に飾っている。
 嫁いできて三年たつが、彼女の体はあいかわらずすらりとしていて、年齢を寄せつけないような印象を周囲に与えていた。

「今年もあなたなのね」
 リティシアの客間に通されたコンラートは膝をついて彼女を待っていた。
「皆、元気にしているかしら」
「病気になるようなやわなやつはいませんよ」
 笑いながらコンラートはリティシアの手の甲に唇を押しあてる。

 きゅっとリティシアの胸が締めつけられた。彼には申し訳ないことをしている。
 リティシアのために、未来を捨てて辺境の城へと閉じこもっているのをリティシアは知っていた。
 国に残っていれば彼の前にはどれだけの未来が開けていたのだろう。

 それでも――リティシアは彼に何も返すことができない。何を差し出しても、彼は受け取ってくれない。
 リティシアの想いをくみ取ったようにコンラートは立ち上がる。携えてきた書類を彼女に渡した。
「今年も異常はありませんよ。あんな田舎の城にしては上々です」
 リティシアは素早くコンラートが渡した書類に目を通す。

 彼女が持参金として、この国に嫁ぐときに父から譲り受けた領地。中心となる城もごく小さなもので、さほど裕福な地とはいえない。
 彼女にかわってその地を治めている者のおかげで、かろうじて黒字というところだ。
 領民の納める税を必要以上に厳しくしないよう、リティシアが命じているから、領民が飢えているということもない。

「ありがとう」
 それ以上の言葉を、彼女は知らない。
「あとでレーナルト様にお見せするわ。お茶にする? それとも少しお庭を歩く? まだそれほど寒くはないと思うの」
 庭を、というコンラートの返答を聞いて、リティシアはゲルダを呼ぶ。

 側近く仕えている侍女の中では一番年かさの彼女を連れて、リティシアはコンラートとともに庭園に出た。
「マイスナートの方は、もうほとんど葉が落ちていますよ」
 木を見上げてコンラートは言った。
「あちらは寒いものね」
 と、リティシアは返す。

 ふいにコンラートが手をのばした。髪に触れられ、リティシアは身体をこわばらせる。
 離れていくコンラートの手には、枯れた葉が握られていた。
「ついていましたよ」
 コンラートはそれを地に落とす。リティシアはほっと息をつき、もう一度口を開こうとする。

「それで――」
 マイスナート城にいる騎士団員たちの話を一人ずつについて聞くつもりだった。コンラートの顔を見上げていたリティシアの身体がふいにゆらぐ。
 何かにつまづいた。倒れかけたリティシアの身体が、ふわりと抱き止められる。
「大丈夫ですか?」
「だ――大丈夫よ、ありがとう」

 自分の足で立とうとしてリティシアは顔をしかめた。足首に痛みが走る。
「……足首を痛めたみたい」
「それはいけませんね」
 急に両膝をすくいあげられて、リティシアは小さく悲鳴をあげた。
「じっとしていてください。……多少暴れたところで、あなたを落とすこともないと思いますけど」

 それからコンラートはゲルダの方をふり返った。
「城内に医者はいるんだろ? 連れてきてくれ。リティシア様は、そこのベンチにお連れする」
 慌ててゲルダはその場を立ち去る。城内には、常に医師がつめている。それほど時間がたたないうちに到着するだろう。

「……モグラの穴、かな」
 リティシアがつまづいた地面の穴を、リティシアの肩越しに見下ろしてコンラートは言った。
「……ぜんぜん見えなかったわ」
 彼の肩に顎を押しつけてリティシアはぼやいた。

「まさかあんなところにモグラが穴を開けているなんて思いませんよ。この庭は手入れが行き届いているようですし」
 少し歩いたところにあるベンチに、コンラートはリティシアをおろした。
「庭師に言えば、すぐになんとかしてくれますよ」
 ベンチにおろしたリティシアから離れようとして――コンラートは動きを止めた。

 リティシアの夫であるレーナルトは執務室にいた。窓を背に置いた机に向かって一心にペンを走らせる。朝から休むことなく、彼は政務に取り組んでいた。もう少しがんばったら、妻の顔を見に行こうか。
 ノックの音とともに室内にやってきた宰相のアーネストは、彼の肩越しに窓の外の景色に目をむけた。

「おや、王妃様ですな」
 アーネストの言葉に、レーナルトは身体をひねって窓の外を見る。
 葡萄色のドレスを着たリティシアと、茶の服を着た男が並ぶようにして歩いていた。
 彼が誰であるのかを、レーナルトはすぐに理解した。
 リティシアの忠実な騎士だ。そういえば、今年も彼が来る時期だとリティシアが言っていたような気がする。

「あ――あいつ、何してるんだ!」
 突然レーナルトは大声をあげて、立ち上がる。
 彼の目には、コンラートがリティシアの髪をなでたように見えた。
「何ですか、一体」
 胸の前に書類を持ったアーネストは、憮然とした表情を主に向ける。
 
 それにも気づかず、レーナルトは窓の外から目を離すことができない。
 髪を撫でただけではない。リティシアを引き寄せ――抱きしめ――あげくのはてにどこに連れていくつもりなのが、抱き上げたのだ。
「アーネスト! 後はまかせた!」
 レーナルトは勢いよく立ち上がった。

「……あと必要なのは、陛下の署名だけなのですがね」
 つぶやいたアーネストの言葉は、レーナルトの耳には届いていない。
 勢いよく執務室の扉が閉じられ、アーネスト一人が取り残された。

 胸を鷲掴みにされたような重苦しさを抱えながら、レーナルトは急ぎ足――どころか走って廊下を通り抜ける。
 リティシアに愛されているのはわかっている。けれど、リティシアとコンラートの間には、夫であるレーナルトさえ入り込めない絆があることを知っていた。

 あれだけの忠誠心をささげてくれる部下に、この先何人出会うことができるだろう。
 彼の忠誠心は認めるところだけれど――彼がリティシアの身体に手をふれているのは楽しいことではない。
 自分が嫉妬していることに気がついて、レーナルトは苦笑した。

 王宮正面の扉を通り抜け、レーナルトは庭園へと足を向ける。
 つきそっているはずの侍女は何をしているのだろうといらつかされる。王妃を抱きしめるような不届き者は、身を呈してでも止めるべきではないだろうか。

 足音荒く、レーナルトは庭園へと足を踏み入れる。
「コンラート、だめよ。それはやめて!」
 リティシアの声が響いてくる。
 あのばか、リティシアに何をしている。レーナルトの脳内には無体なことを要求されているリティシアの悲惨な姿が容易に思いうかべられた。力で彼女がコンラートにかなうはずはない。
 コンラートがリティシアに無体なことなど要求するはずなどないと頭では理解していても――嫉妬心は全てを吹き飛ばした。

 レーナルトは足を速め、声のもとへとたどりつく。
「な――何をしている!」
「……陛下」
 困ったような顔をして、リティシアはレーナルトを見上げた。
「足を痛めてしまったのです」
 弱々しい表情で彼女は言う。
 ベンチに腰かけた彼女の前には、コンラートが膝をついていた。右手に小さなナイフを持っている。
 もっと別の事態を想定していたレーナルトは、思わず大きく息をついた。

「ここまで運んでくれたコンラートのボタンに髪が絡まってしまって――髪を切るようにと言ったのですが――」
「リティシア様の髪を切るなんてできませんよ」
 コンラートは手にしたナイフを、ボタンと生地の間に差し込もうとした。
「――それはだめよ!」
 リティシアはコンラートの手首を握りしめて押しとどめる。
 
 気に入らない。リティシアが彼に触れているのが気に入らない。
 リティシアが触れていいのは、夫であるレーナルトだけだというのに。

 ふんと鼻を慣らして、レーナルトはコンラートの隣に同じように膝をつく。
「手をどけろ」
 そうコンラートに命じて、彼が手をどけるとポケットから取り出したナイフを一閃させた。
 レーナルトが立ち上がった時にはリティシアの髪は自由になっていた。

「リティシア、手を」
 名を呼ばれて、リティシアは手を出す。その手にボタンが落とされた。
「つけてやりなさい」
「あ……はい、わかりました」

 ゲルダに呼ばれて駆けつけてきた医師が、リティシアの足をたいしたことはないと診断をくだすのを確認して、レーナルトは執務へと戻ることにした。
「すまないが、リティシアを運んでやってくれ」
「――かしこまりました」
 自分を挟んで、男二人が視線を交わしたことをリティシアは気づいていない。
 ここで嫉妬心を見せてなるものか。表面上はあくまでもにこやかにリティシアを託して、レーナルトはその場を離れた。

 執務室に戻ると、あきれた顔で宰相が出迎えてくれた。
「どこへ行ったのかと思っていましたよ。さ、さっさと続きを片付けてください」
 レーナルトの前に書類が山と積み上げられる。
「さっさと片付けるぞ」
 そう宣言して、レーナルトは今までにない勢いで仕事に取り組み始めた。さっさと終わらせて、リティシアの居間へと行こう。コンラートとリティシアの間に割り込んでやらなければ気がすまない。

 リティシアを居間へと運び込んで、コンラートは辞去の意を告げた。
「お茶くらい飲んでいけばいいのに」
 足を痛めているといっても、お茶をいれるくらい座ったままでもできる。
「遠慮しておきますよ」
 コンラートは笑った。
「陛下が怖いですしね。どうやら、俺とリティシア様が一緒にいるのが気に入らないようです」
「そんなことは――ないでしょう?」

「さて、それはどうでしょう。きっとすぐに陛下がいらっしゃると思いますよ」
 それからコンラートは首にかけた紐を少し引き出して見せた。
「俺は、これがあれば十分です」
 その紐の先に何が下げられているのか、それだけでリティシアは理解できた。
「また来年お会いしましょう」
 そう告げて、コンラートは退出する。リティシアはそれを黙って見送った。

 コンラートの言葉通り、レーナルトはすぐにリティシアの居間にやってきた。実のところ、残りの仕事は「よきにはからえ」とばかりにアーネストに投げつけてきたのである。いろいろと言っていたようだったが、耳をふさいで逃亡してきたのだ。
 居間にリティシアと侍女しかいないのに気がついて、レーナルトは意外そうな表情になった。

「彼はどうした?」
「帰りました」
「帰った……?」
「また来年来るそうです」
 微笑むリティシアの隣に、レーナルトは腰をおろした。

「レーナルト様」
 ソファの上でリティシアはレーナルトに身を寄せる。
「少し……甘えてもいいですか?」
 ゲルダの合図で、室内に控えていた侍女たちは静かにさがっていった。

「つもる話もあっただろうに」
 そっとリティシアの肩に腕を回してレーナルトは言った。
「いえ……それはいいんです……それは」
 リティシアはつぶやくように言った。
 
 どうやら、彼にはかなわないらしい。レーナルトは一人苦笑する。
 コンラートは、レーナルトの胸中などあっさり見抜いていたようだ。
 優しく妻に口づけながら、レーナルトは来年までに嫉妬心を押さえる術を身につけることができるかどうかと悩んでいた。


 

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