最後の女神




ある騎士の証言

 リヒャルト・グウェインは、急いでいた。ようやく休暇が取れて、実家へと戻るところなのだ。この一年は大変だったと正直思う。
 国王が南の町へ飛び出していくのに付き合わされたと思ったら、今度は北の国境での戦争だ。
 講和条約が結ばれるのと同時に、花嫁を護衛して帰国。
彼はローザニア国王の側に仕えている騎士なのである。

 初めて彼女を見た時、なぜ国王は妹の方を選んだのかと不思議に思った。宴の席で見かけた姉姫は光輝くような美女で、リヒャルトに選択権があったなら迷わず彼女を選んだだろう。
 茶の旅装に身を包み、きっちりと髪を結い上げ、二人の侍女だけを連れて馬車に乗り込んだ彼女は、妙に頼りなく見えた。
 あれでローザニアの王妃がつとまるのであろうかとリヒャルトは心配したのだが、主はといえば気にとめる風でもなかった。

 最初の日は馬で進んだレーナルトは、二日目にはもう一台の馬車を用意し、侍女たちはそちらへ移して未来の花嫁と二人、旅路を進むことになった。
 最初は不安そうに大きな灰色の目を落ちつきなく瞬かせていた彼女も、日を重ねるに従ってだんだんと馴染んできたようだった。
 
 レーナルトを見上げるときに頬を染めるのが何ともいえず愛らしくて、国王の方も彼女に心を惹かれてくれればいいと願ったのをリヒャルトは覚えている。
 結婚当初、夫婦中は実にうまくいっているように見えた。レーナルトは慣れないリティシアを常に気遣い、人前もはばからず腰に手を回して彼女を側に置いていた。

「あれは本気かな?」
 とリヒャルトが年上の同僚にたずねると、彼は笑って返してきた。
「大切にして見せないといけないんだよ、陛下の方は。そうでもなけりゃ、あんな田舎の小娘、宮廷内からつまはじきにされるの目に見えているだろ」
 ま――王妃の方は本気だな、と同僚がつけたしたのにはリヒャルトも納得した。
 そんなことは、言われるまでもなくわかる。彼女の表情を見ていれば。

 このまま何事もなく続けばいいのだがと願いつつも、リヒャルトは何も心配していなかった。
 特に二人が休暇を過ごすと海辺の城を訪れた時など。行きの道中の馬車から奇妙な声が聞こえたのは、聞かなかったことにしろと言われた。
 耳を塞げと同行していた同僚に指示されるまで、中で何が行われていたのが気がつかなかったのは、彼がまだ若かったからだろうか。

「楽しんでいるようだなぁ」
 と、リヒャルトの同僚たちは苦笑いしつつも、まさか国王相手にそれを口にすることができるはずもなく。
「感度はよさそうだな」
 と口走った騎士の一人が、護衛を指揮していた隊長になぐられて終わったのだった。

 到着した王妃は、髪が乱れていてどことなく気まずそうな表情をしていた。王の方は満足そうで、彼女の腕を取っているのを見たら二人の仲がうまくいっていないなどと思う方が難しい。
 嫁いできた時には、病的なほどに青白かった顔の色もローザニアの気候が合っていたのか、今は色白と言えど病弱な感じはしない。

 やっぱりうまくいってるじゃないか。彼の両親もそうだった。親同士の決めた婚姻で、父親の方は母親にぞっこんだったが、母親には他に好いた男がいたらしい。
 それでも父の愛情に母はできうるかぎりの誠意を持って応え、貴族社会には珍しく双方他に愛人を作ることもなく穏やかな家庭を築いている。
 国王夫妻もきっとそうなっていくのだろうとリヒャルトは思っていた。あの日までは。

 朝あわただしく呼ばれた思ったら、王妃の持参金であるマイスナート城への使者としてたつことになった。
 青ざめた顔の王に書状を手渡され、
「口頭でもかまわない。何としても王妃の返事をもらってくるように」
「かしこまりました」
 厳しい表情のレーナルトに、リヒャルトは一礼し、書状を託されて出立した。

 あんな顔の王は見たことがなかった。
 このところ、国王夫妻の仲がぎくしゃくしているというのは宮中内で噂になっていたし、彼も実際自分の目で見ていた。
 王宮で開かれた舞踏会。本来なら主役であるはずの王妃が一人テラスに出ているのを。
 窓の外にまで流れてくる音楽も耳に入っていないように、一人夜空を見上げていた。
 
 きゅっと唇を噛みしめる表情は、どこか悲しげに見えた。そう仲間に話すと、
「……飽きられたんだろ」
 と、あっさり流された。
 彼らからしてみれば、北の小国の王女など田舎娘もいいところだ。
 周囲を華やかな女性に囲まれていたレーナルトが飽きたというのが彼らの見方で、きっとそう思ったのは彼らだけではかったはずだ。

 貴族の娘たちは、舞踏会により美しく装って出席するようになり、王へ美しい娘を推す動きも露骨になってきていた。
 だから、リヒャルトも思っていたのだ。いずれ王妃は影の存在に追いやられると。
 けれど、彼に書状を託したレーナルトの表情は切実なもので――だから、彼は馬をかえて飛ばし続けた。一刻も早く、王妃のもとへ書状を届けるために。

「しばらく待ってもらえるかしら?」
 久しぶりに顔を合わせた王妃は、だいぶやつれていた。それでもリヒャルトに笑顔を作って、受け取った書状を傍らに控えていた侍女に手渡す。
「お返事は書くわ……なるべく早く。だから、あなたはゆっくり休んでちょうだい。明日の朝出立した方がいいでしょう」
 ゆるやかにドレスの裾を翻して、膝をついているリヒャルトの目前からリティシアは姿を消す。

 翌朝、リヒャルトはリティシアの書状を胸に王城へと戻っていった。王妃の託した手紙の内容は知らない。けれど、レーナルトにとっては満足のいく内容ではなかったのだろう。
 リヒャルトと数人の騎士が交代で毎日のようにマイスナート城へと走らされた。
 何往復かしているうちに、彼は気がついた。王妃のそばに忠実に従っている騎士の存在に。王妃が彼にむける笑顔は、リヒャルトたちにむけるものとまるで違っているということも。
 彼は何者なのだろう。この城に駐在している騎士たちの中でも、彼は特別なようにリヒャルトの目にはうつった。

 リヒャルトの主――レーナルトにむける笑顔ともまるで違う。そこにあるのは「信頼」だった。
 顔を合わせるたびに、王妃の顔が少しずつ生き生きとしてくるのもわかったから。
 どちらにいるのが幸せなのだろう。寵姫を――と勧める貴族たちをレーナルトはがんとして寄せ付けないで王妃の帰城を待ってはいるが。

「……お戻りにはならないのですか?」
 僭越だと思いながら、リティシアにリヒャルトが問いかけたのは何度目のことだろう。
 そう問われて、リティシアは困ったような表情になった。
「……戻らなければいけないのはわかっているわ……でも」
 言葉を切った王妃の表情が沈んでいるのを見て、リヒャルトはそれ以上の言葉をかけることはできなかった。
 彼にもわかる。この城はもともとリティシアの母国だった地にある城だ。城に仕えている者も、数が少ないとはいえ全てレーナルトよりはリティシアに忠誠を誓っている者ばかりだ。

 リティシアを王妃の座から引き下ろすことはできないまでも、先代の王妃のように青の間に追いやって、寵姫を事実上の王妃の地位につけようとする野望を持つ者は多い。
 当然その寵姫の座を得るのは、彼らの身内の女性だ。レーナルトがいくら言葉を尽くしたところで、周囲が敵ばかりの王宮に戻る気になれないのは当然のことだろう。

『もう少しだけお時間をください』とリティシアの文には書かれているのを知ったのは、何往復した後だろうか。
「――しかたないな」
 レーナルトはリヒャルトの差し出した文に目を通して、ため息をつく。
 王妃の母国が国境近辺で怪しげな動きをしているという噂はリヒャルトの耳にも届いていた。
 王妃を呼び戻すには、情勢が厳しくなっているのかもしれない。

 リヒャルト個人は、マイスナートへ往復させられるのには閉口していたが、リティシア個人には好印象を抱くようになっていた。
 確かに華やかさや威厳といったものには欠ける。けれど、城に到着するのが何時になろうが、自らいたわりの言葉をかけてくれる。疲れてはいないかとたずね、温かい食事と少量の酒、柔らかなベッドが用意される。
 心優しい人なのだとリヒャルトは思う。個人としては好感を持てるが、宮中での生活には確かに不向きなのだろう。

 やがて、北の国境への出兵が決められた。国王自ら軍を率いて、戦場へ向かうのだという。
 兵士たちの間では、さまざまな噂が広がっていた。王妃が裏切って母国へ戻っただの、娘の扱いに不満を持ったファルティナ国王が娘を取り戻すために兵を起こしただのと。
 国境でにらみ合うこと数日。
国王同士の会談が行われ、王妃が戻ってきたと思ったらそのまま両軍引くこととなった。詳細を知っているのは両国王とその側近たちくらいだろう。
リヒャルトのようなただの騎士には、何があったのかはわからない。けれど戦にはならずそのまま軍を引くことになったのはありがたかった。

 あれから、数年。
「……リヒャルト」
 執務室の前に控えていた彼を主が呼んだ。
「王妃の間へ行く。護衛を頼む」
「……陛下。こちらの件についてはどうなさるおつもりですか?」
 室内から宰相アーネストの声が聞こえてくる。
「すぐ戻る!」
 ばたりと扉を閉じて、急ぎ足にレーナルトは歩き始める。歩くというよりは小走りと言った方が近い勢いだ。
 リヒャルトともう一人の騎士は主を守るべき位置について慌てて王妃の間へとむかう。

「……リティシア!」
 あわただしく扉を叩き、内側から開かれるのと同時にレーナルトは王妃の居間へと飛び込む。
「具合はどうだ?」
「……具合悪くなったりしていませんわ。お仕事はどうなさったのですか?」
 中からリティシアの声がして、そこで扉が閉じられ、入室を許されていないリヒャルトの耳には何も聞こえなくなった。

 王妃の懐妊が判明して一ヶ月。政務の合間にレーナルトは理由をつけてはせっせと彼女の居間を訪れ、家臣たちを半ばあきれさせている。
 それでも。
 嫁いできた頃は、もろささえ感じたリティシアは少しずつしなやかな強さを増していって、今ではローザニアの王妃として立派につとめている。
 これで第一子が王子ならば世継ぎにも恵まれることになるわけで、リティシアの地位はますます安泰になることだろう。

 中でどんな会話を交わしてきたのかは知らないが、部屋を出てきた王は満足そうな顔をしていた。
 それでいい。彼の主が幸せならそれでいい。
「……戻るぞ」
 この後、出産を無事に終えるまでレーナルトがリティシアをかまい倒し、医師に叱られたというのはまた別の話になる。

馬を走らせながらここ数年のことをふり返り、ようやく家へとたどり着いて、リヒャルトは扉を叩く。
「お帰りなさい、あなた」
 彼を迎えに出た妻と子どもたち、それから両親に話してやろう。
 ローザニアは長期にわたって平和を保つことができそうだと。


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