最後の女神




あるべき姿

 毎夜レーナルトはリティシアの居間へと入る。彼女が出奔してからもう一月以上が経過していた。深夜近くまで政務に追われても、彼女の部屋に入るのはかかすことができない。
 並んだ細く丁寧な文字で記された詳細な貴族たちとの面会の記録。最初のうちは頻繁だった貴族たちの訪問も、レーナルトがリティシアを遠ざけた頃からだんだんと少なくなっていって、二月後にはほとんどなくなっていた。
 丹念に細かな字を追っていって、ノートを閉じる。昼間の政務の間もほとんど目を休める余裕はない。レーナルトは目頭を押さえた。

 机の上に置いてあった呼び鈴を手に取る。鳴らすと姿を現したのはタミナだった。彼が役所から引き抜いて、王妃付きの侍女にした彼女とリーザは、リティシアが城を出た今もまだ城にとどまっている。
「茶を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
 物音一つたてず部屋を後にしたタミナは、香りの高い茶をいれたカップを盆にのせて戻ってくる。
「……味が違うな」
 思わず本音がこぼれた。

 リティシアのいれてくれた茶は、もっと香りがよくてほのかに甘みさえ感じられた。
 けれどタミナの茶は違う。リティシアが使っていたのと同じ茶葉を使い、同じ茶道具を使っているはずなのに。
「王妃様と同じようにいれているはずなのですけれども」
 一歩下がった場所から彼を見ていたタミナは、苦笑混じりに返した。
 レーナルトはカップを机の上に戻す。
 リティシアのいれてくれた茶が恋しい。
 
 自分の部屋から持ち込ませた便せんを用意して、ペンを手に取る。三日に一度は、リティシアへ手紙を出しているのだ。毎回同じ返事しか返ってこないのだけれど。
 けれど、今日はいつもにもまして言葉が出てこない。
「タミナ――」
 レーナルトはタミナに声をかけた。
「なんと書いたらいいと思う?」
 ふう、とタミナは大きくため息をついた。国内最高権力者の前でのその態度、本来ならば厳罰ものだが今のレーナルトにそれをとがめるつもりはない。

「陛下ご自身のお心のままに」
 それができれば苦労しない。レーナルトの表情を見て取ったタミナは、
「王妃様のお手紙にはなんと?」
 と質問をかえた。
 レーナルトは、傍らの箱をちらりと見る。そこには彼の送った手紙の返事がおさめられているのだが、並んでいるのはよそよそしい言葉ばかりだ。

 多少言葉は変えてあれど、陛下のお心に感謝いたします、もう少しお時間をくださいませ。要点は毎回同じだ。
 沈黙したままのレーナルトにタミナは言った。
「陛下のお心が伝わっていないのではないですか?」
 伝わっていない、か。
 ペンを置いてレーナルトは息をついた。
 自分の心――何を伝えればいいのだろう。今さら愛している、と書いたところで彼女は信じてくれないだろう。それだけのことをしてきたのだから。
 さがるようにと合図され、タミナはそっと退室していく。

 翌日、同じように茶を運んできたリーザはもっと辛辣だった。
 彼女の茶は、タミナがいれてきた物より苦かった。茶葉の量が多かったのだろう。
 タミナと同じ問いを投げかけられ、
「いまさら、でございますか?」
 と、凍りつくような視線とともに彼に言い放つ。本当に容赦ない。
「王妃様のお手紙を、陛下は何度無視なさいましたか?」
 寝室を別にしてから、リティシアは何度もレーナルトに手紙を書いてよこした。
 時間を取ってほしい、と――何度も、何度も。

 レーナルトは、リティシアのその手紙を無視したわけではない。返事は毎回きちんと出した。口頭で侍従に書かせたものではあるが。
 今は時間を取ることはできない、と。リティシアの侍女たちからしてみれば、無視しているのと同じことだったろう。
「――確かにいまさら、だな」
 彼の口元に苦い笑みが浮かぶ。
 
 そのうちリティシアからの手紙は届かなくなった。そのことに安堵した。
 側に置いたら傷つけてしまう。きっと辛辣な言葉を浴びせかけて、あの大きな灰色の瞳に涙が滲むのを見ることになるだろう。
 そう思ったから遠ざけた。
 それが彼女を宮中で孤立させているとわかっていながら放置したのは――彼が臆病だったからだ。
 彼女と正面から向き合うのが怖かった。これ以上彼女と心の距離を縮めたくない。そうしたらきっと想い人を忘れてしまう。
 彼がぐずぐずしている間に、どんどん彼女を追いつめて――そして彼の妻にはふさわしくないとまで思わせてしまった。彼の側にいてはいけないと思いつめるまで。

「王妃様のお心を考えたら、お返事をする気にはなれないと思いますわ。陛下のなさったことがそのまま返ってきているだけでしょう」
「……厳しいな」
 リーザは肩をすくめる。その気になれば、いくらでも辛辣な言葉を吐くことができるのだ、彼女は。たとえ相手が国王であっても。
「小国の――それも敗戦国の王女。有力な後ろ盾もないまま嫁いできて――頼りにできるのは陛下だけだったでしょう」
「……そうだな」
「先に王妃様の手を離したのは陛下――」
「わかっている」

 できることなら、今すぐ政務を放り出して迎えに行きたいくらいだ。王の責務を放り出すわけにはいかないが。
「戻ってきてほしいんだ、彼女に」
「ではそうお書きになればよろしいのです」
 空になったカップを彼の向かっている机から取り上げ、リーザは一礼してさがろうとする。
 それから思い直したように足をとめた。ふり返ってレーナルトへと問いを投げかける。

「……陛下、王妃様とどのようなご夫婦でありたいのですか?」
 ペンを取り上げようとしたレーナルトの手がとまった。
「……どのような、か」
 どのような、と問われても彼は答えを持たない。彼の両親は不仲だった。父は正妃ではなく寵姫に夢中で、正妃が宮中で孤立していくのを放置していた。
 放置された彼の母は、王宮内の青の間と呼ばれる一角から出ることもなく忘れ去られ――少しずつ正気を失っていって、忘れ去られたまま死亡した。
 
 どのような夫婦でありたいかと問われても、彼にはわからない。夫婦がどうあるべきなのか。
「……わかりませんか?」
 リーザの問いに彼は沈黙で返す。
「そんなお気持ちのまま、ただお手紙を書かれても、きっと王妃様の心には響きません。少なくともわたくしはそう思います」
  
 考えてみれば。
 彼のしたことは父がしたことと大差ないのかもしれない。あれほど憎いと思った父と。
 城を出る前に、リティシアはレーナルトに向かって言ったのだ。「青の間にうつります」と。
 自分は王妃として何もできないから――だから誰でも好きな人を側に置いてほしいと。
 そんな風に言わせてしまった彼に、戻ってきてほしいと口にする資格はあるのだろうか?

「……あいかわらずきついな」
「それも仕事ですから――わたくしの」
 にこりとしてリーザはレーナルトの前から姿を消す。
 レーナルトはペンを取り上げた。大きくため息をついて、レーナルトは便せんと向かい合う。
 何と書けばいいだろう。

 彼には何も見えていない。彼がリティシアとどんな未来を築いていきたいのか。
 それでも、彼女とつながっていたい。それがどんなに細い糸であっても。
 迎えに行ってもいいか。
 その夜、初めて彼はそう書いた。


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