最後の女神




家族の肖像

 レーナルトは、子ども部屋の扉を開いた。季節は冬。廊下の空気はひんやりとしている。
 子ども部屋の中は暖かかった。暖炉の火は勢いよくたかれている。
「エルウィン、お父様よ」
 扉を閉めたレーナルトは、そのままそこから動けなかった。目に飛び込んできた光景が、あまりにも美しすぎて。

 暖炉の前に彼の妻が腰をおろしている。膝の上に長男のエルウィンを乗せ、大きな絵本を広げていた。
 深い緑のドレスは、明るい茶の彼女の髪を引き立てている。今日はまとめていない彼女の髪は、緩やかに波打って肩から背中へと流れ落ちていた。
 
 彼女の膝の上から息子が彼に笑いかける。次男のアレクは床の上を転げ回りながらおもちゃをしゃぶっていて、三男のフリッツは乳母の腕の中ですやすやと眠っている。
 それは平和な家庭そのものを描いた美しい絵だった。
「エルウィン……お父様にご挨拶なさい」
 リティシアは膝から長男のエルウィンをおろす。とことこと駆け寄ってきた彼は、レーナルトの膝に抱きつくと
「とうたま」
 と、あどけない声で言った。

「もう政務の方はよろしいのですか?」
 立ち上がったリティシアもレーナルトの方に近づいてくる。途中で床の上からアレクをすくい上げ、レーナルトに手渡した。アレクはきゃっきゃと声をあげて、レーナルトの顔を涎まみれの手でいじくりまわす。
 それを笑いながら受け入れて、レーナルトはリティシアを引き寄せた。
「今日はもう終わった。急な面会者がなければ、な」
 レーナルトが頬に落とした口づけを、リティシアは微笑んで受け止めた。
「珍しいですね。でもよかった」
 リティシアはレーナルトを見上げる。
「一緒におやつにしましょう」
 室内にいたリーザに、リティシアは何事か命じた。レーナルトは膝から長男をひきはがして、次男を抱えていない方の腕で抱き上げ、改めて妻を見つめる。

 三人も子どもを産んだとは思えないほど、彼女はすらりとしていた。嫁いできた頃と何も変わらない。
 違うな――とレーナルトは妻を見て目を細めた。嫁いできた頃より美しくなった。
 おどおどとしていた灰色の瞳は、いつも明るく輝いている。レーナルトを見つめるときは、一段色が明るくなるのを彼は知っている。見つめ返すと、今でもその頬にさっと朱がはかれることも。

 いつの間にか物腰も落ち着きをまし、大国の王妃としてふさわしい威厳のようなものさえ漂わせつつある。
 常に控えめで、華やかな席が苦手なのは変わらない。けれど、公務をおろそかにすることのない姿勢は、この国の王妃として十分受け入れられている。母国である北の小国との仲も良好だ。
 平凡な彼女の顔立ちが見違えるほど美しくなったというわけではないが、三人の息子に愛情を注ぐ姿は、国民から理想の母とまで言われるようになっていた。

「それは何だ?」
 侍女が運んできた盆の上に載ったものを見て、レーナルトはたずねた。
「焼き林檎です、レーナルト様」
 侍女ではなくてリティシアが答えた。
「いや……そうではなくてだね」
 盆に載せられていたのは、調理された焼き林檎ではなかった。鍋と木製のへらと食器だ。

「見ていればわかりますわ」
 リティシアは、レーナルトの腕から息子を受け取って、暖炉の前に膝をつく。
「さあ、一緒にお料理しましょう」
 子ども部屋の暖炉をリティシアは改造させていた。鍋を置けるようにして、牛乳を温かくするくらいのことは子ども部屋でできるようにしてある。
 そこへリーザの運んできた鍋を載せると、子どもが火に近づきすぎないよう注意しながらリティシアはエルウィンの隣に膝をつく。

「いい? よく見ているのよ?」
 バターと林檎、シナモンの香りが部屋に漂い始める。レーナルトはそれを見ながら思った。こんな光景は知らない、と。
 彼の知っている母親は、いつも夫とその愛人を呪っていた。
 父親といえば正式の妻を放置しておいて、愛人にのめり込んでいた。息子にはそれなりの愛情を持っていたようだったが、王とその地位を継ぐ者としての関係が親子の愛情の前に立ち塞がっていた。
 彼の記憶にある両親の間はいつもひんやりとした空気が漂っていて、幼い心に傷を残した。

「ほら、ぐつぐつしているでしょう? かあさまがひっくり返すからよく見ていてね?」
 リティシアは木べらを使って鍋に並べられた林檎をひっくり返す。
「焼きすぎたかしら……? でも焦げていないから大丈夫ね、きっと」
 ここにあるのは彼の知らない母と子の姿だ。レーナルトは、腕に抱いたアレクに髪を引っ張られながら暖炉の前のリティシアとエルウィンを見つめる。
 これは、子どもの頃彼が望んでいた幸せな家庭だ。

 レーナルトはしみじみと思う。リティシアと結婚して本当によかった。
 最初に彼が望んでいた女性とリティシアは違う人だけれど――リティシアでなかったら彼にこんな光景を与えてくれることはできなかっただろう。
「リーザ、お鍋をテーブルに運んでくれる? エルウィン、ちょっととうさまのところに行っていてね。熱くて危ないから」
 アレクを抱いていない方の腕にエルウィンが押し込まれる。乳母が一人抱えているとはいえ、子どもが三人もいると大変だとレーナルトは苦笑した。

 テーブルについてからもリティシアは忙しい。子どもたちに焼き林檎を取り分け、膝の上に載せたアレクの口に運んでやる。かと思えば、皿をひっくり返そうとするエルウィンの手を素早く押さえ、
「注意なさい。こぼしたらお代わりはないのよ?」
 と優しく言う。

 レーナルトの前にもリティシアの入れたお茶のカップと焼き林檎、それに厨房から持ってきたクッキーが置かれていた。
 レーナルトは慎重に目の前の皿に載せられた焼き林檎を口へと運ぶ。確かに焦げる一歩手前だ。同じ材料を作っても、宮廷の調理人ならもっとおいしく仕上げるだろう。
「かあさま、ふぅふぅ、して!」
「エルウィン……まだお口に入っているでしょう? ちゃんとごっくんするまで次はないのよ?」

 たしなめるリティシアに、エルウィンは大きく口を開けてみせる。
 中が空になっているのを確認してから、リティシアは次の焼き林檎をエルウィンの口に入れてやる。
「あー!」
 アレクも口を開けて催促する。
 レーナルトの口元に笑みがうかぶ。この光景が最高の調味料だ。

 大騒ぎしながら焼き林檎をきれいに平らげ、子どもたちは遊びへと戻っていく。
「リティシア」
 子どもたちを遊ばせておいて、レーナルトはリティシアを引き寄せようとした。ようやく落ち着いて彼女と話をすることができる。
 
「とうたま、めっ!」
 エルウィンが二人の間に割り込んできた。強引にレーナルトの脚とリティシアのスカートの間に割り込んで、
「かあたま、あそんで!」
 リティシアの腕を引いて、床に転がした積み木の方へと彼女を誘う。
「……エルウィン?」
 レーナルトは膝をついた。視線を子どもと同じ高さに合わせる。

「とうさまはかあさまと話があるんだ。しばらくアレクと遊んでいなさい」
 顔をのぞきこんでゆっくりとした口調で言うと、エルウィンはリティシアのスカートにしがみついて首をふった。
「とうたま、いやっ!」
「エルウィン……ちょっとだけだから、待っていてくれる?」
 スカートを握られたリティシアの言うことも、彼は聞かない。

「エルウィン? かあさまは、とうさまのものだぞ」
 レーナルトの声音に、脅すような響きが混ざった。
「エルウィンの!」
 エルウィンはスカートを握りしめる手に力をこめて、父親をにらみつけた。
「……子どもと張り合わないでください、レーナルト様」
 頭上から落ちてくるリティシアの声を無視して、レーナルトはエルウィンをリティシアのスカートからひきはがした。

「ほうほう、エルウィンはそういうことを言うのか?」
 立ち上がり、自分の目線の高さまで息子を持ち上げ、思いきりエルウィンの目をのぞきこみながらレーナルトは低い声で言う。
「かあさまはとうさまのものだと言っているだろう」
 そのまますたすたと歩き出す。
「そんな悪い子はここには置いておけないな」
 室内にいる侍女たちはおろおろしているし、アレクはすでに泣き声をあげている。木製のおもちゃをかじりながら。

「うわあああんっ、かあさま! かあさま!」
 レーナルトの肩越しにエルウィンはリティシアに必死に手をのばす。
「レーナルト様」
 リティシアの声音が危険な色を帯びているのにレーナルトは気がついた。足をとめる。
「子どもを泣かせるのなら出て行ってください! 今すぐ、です!」

 エルウィンをレーナルトからひったくり、リティシアは子ども部屋の扉を指さす。
 一言言おうとしたレーナルトに、思いきり怖い顔をしてリティシアは最後通告をつきつけた。
「出ていかないと言うのなら、わたくしと子どもたちが出ていきます。さあ、どうしますか?」
「……」
 降参、の印に両手を高くあげてみせ、それからレーナルトは子ども部屋を後にした。
「大丈夫よ、かあさまはここにいますからね」
 抱きしめたエルウィンの耳元で、リティシアがレーナルトにむけるのとはまったく違う優しい声で話しかけているのを聞きながら。

 自分の部屋に戻ってレーナルトはため息をついた。最近のリティシアは冷たい。子どもが優先になるのはしかたがないとしても、だ。
 ソファに腰を落として、読み差しの本を手に取る。

 たまに時間がとれたと思っても、リティシアは公務に追われているか子どもに追い回されているかで、夫婦の時間というものがこのところ激減している気がする。
 もちろん夜は一緒の寝室で休んではいるのだけれど、レーナルトが戻ってくる前にリティシアが眠りこんでいることも多く、最後にまともな会話をしたのがいつだったのかも思い出すことができないくらいだ。

 何ページか本をめくったところで、控えめに扉をたたく音がする。レーナルトにはそれが誰かわかっていた。 
 急いで扉をあけると、リティシアが立っている。
「怒って……らっしゃいます?」
 レーナルトを見つめてリティシアは口を開いた。
「いや――怒ってはいないよ」
 そう言いながら、レーナルトはリティシアの手を引いて彼女を引き寄せる。

「でも、最近のあなたは冷たいな」
 リティシアを抱きしめて、レーナルトはぼやいた。
「ですから――子どもたちは乳母にまかせてあわててとんできましたのに」
 リティシアはレーナルトの腕の中で、つま先立ちになった。そっと唇を触れ合わせる。

「……夕食の時間までは自由に過ごせますわ。子どもたちはまかせてきましたから」
 レーナルトはちらりと時間を確認する。夕食までおよそ二時間。
 それならば。
「ど、どこへ行くのですか?」
 ひょいと抱えあげられて、リティシアは声をあげた。
 その耳朶を唇で挟み込んでレーナルトは笑いながらささやく。

「寝室へ」
「……まだ日も沈んでいませんのに」
 そう言いながらも、リティシアはくすくすと笑いながらレーナルトの首に腕を絡めた。
「……後で、エルウィンに謝ってくださいね?」
「……考えておこう」
「考えるだけではだめです」
 今度はリティシアがレーナルトの耳にかじりつく。
「わかった。わかった。そうしよう」
「……約束ですよ?」
 リティシアはレーナルトの髪を引っ張った。

 レーナルトは寝室へ入ると、そのまま後ろ手に扉を閉じる。それから夕食ができるまでの時間、誰もその部屋には近づこうとはしなかった。 


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