最後の女神




生きていく場所

 レーナルトの手元にその書状が届いたのは、彼が都に戻ってしばらくした日のことだった。
 隣国の皇太子が、ローザニアを訪問したいのだという。隣国とは戦争が終わったばかりであり、おそらくは大国であるローザニアのご機嫌伺いをしたいというところなのだろう。
 それだけではないのは、レーナルトにはわかっていた。彼の妻の様子を確認したいというのも理由の一つなのだろう。

 彼の妻は隣国の王女で、夫婦仲があまりうまくいっていなかったのは、彼女の父である国王も知るところであった。
 もっとも今は何を見られても困ることはない。離れていた間の溝を少しずつ埋めているところではあるが、互いを大切に思っているということには確信が持てる。

 執務室を出て、レーナルトは妻の客間を訪れる。
「リティシア、少しよいかな?」
 今日、彼女の客間では茶会が催されていて、何人かの貴族たちの奥方が招待されていた。
 国王の到来にばたばたと立ち上がった彼女たちは、あわてて臣下の礼をとる。
「そのままでかまわないから」
 手で彼女たちを制して、レーナルトはリティシアの頬に唇を寄せた。

 人前でそんなことをされて、妻の頬が赤く染まる。侍女たちが動き回って、リティシアの隣にレーナルトの席が用意された。
「まあ。兄からの書状ですね」
 色白のリティシアの頬に血の色が差す。
「一月後? 嬉しい」
「歓迎の宴を用意しなくては――ね。手配はあなた方にまかせてよいだろうか?」
 レーナルトにたずねられて、列席していた貴族の奥方たちは一斉に頷く。王妃の兄を迎える宴の手配に関わるとなれば、一種の名誉だ。
 そして大急ぎで、宴の準備が整えられた。

 使節団の到着を、リティシアはテラスで待ち構えていた。中央で馬に乗っているのは、リティシアの兄アルベルトだ。リティシアとよく似た面立ちの、優しげな雰囲気の男性だ。そのすぐ横に従っている男に気がついたリティシアは、
「テオ兄様……」
 思わず、その人の名を口に乗せた。

 侍女たちに身支度の最終確認をしてもらって、リティシアは謁見の間へと向かった。
 兄だけではなく、もう一人の兄のような存在まで訪問してくれるとは思わなかった。従兄弟のテオドール。
 リティシアの夫と同じ年だ。今のところ結婚はしていない。
 幼い頃から兄のように面倒をみてくれたということもあり、リティシアにとっては家族に等しい存在だ。

 従兄弟とはいっても、彼とリティシアたち兄妹には血のつながりはない。
 リティシアの父マーリオの弟であり、宰相でもあるレーヴェン大公と結婚した女性の連れ子だ。前夫とは死別とは言え、婚姻歴のある女性との結婚は当時は揉めたらしい。
 たいそう美しい女性で、大公が押しきって結婚するに至ったのだという。

 正式に養子縁組はしているが、後に弟が生まれたと言うこともあり、レーヴェン家の跡取りではない。
 どちらかと言えば武の人であり、リティシアの兄アルベルトの親衛隊長を務めている。リティシアとレーナルトの結婚が決まった時には、アルベルト同様負傷していて、レーナルトとは直接顔を合わせる機会はなかった。

 リティシアが嫁ぐ前は、リティシアの夫の最有力候補であった。レーヴェン大公の跡継ぎではないとはいえ、テオドールの優秀なことは、宮廷の人間ならば誰でも知っていた。王家にとっては手放したくない人間であった。
 王家とのつながりを強めるためにリティシアを娶らせ、適当な爵位を与えるということも真面目に検討されていた。結局実現はしなかったけれど。

 謁見の間での堅苦しい儀式を終えて、リティシアの客間へ二人は通された。
「本当に、久しぶりに会えて嬉しいわ」
 リティシアは満面の笑みで、二人を出迎える。まず最初に兄の腕に飛び込み、それからテオドールに抱きつく。
 ちょうどそのタイミングで部屋に入ってきたレーナルトは嫌な表情をしたのだが、そこに流れていたのはアルベルトに対するのと同じ種の感情であることに気がついて、何も言わず黙ってリティシアを引き寄せるのにとどめておいた。

「あのね、お茶にしようと思うの……陛下も……お時間取れますか?」
「いや、遠慮しておこう。久しぶりの家族の再会なのだろう? わたしは後ほどの晩餐会で」
 レーナルトはリティシアの髪をかきあげ、頬に口づける。そうしながら、横目でテオドールの様子をうかがう。

 背はそれほど高くはなかった。中肉中背といったところか。非常に甘い顔立ちをしていて、到着した時現場に居合わせた女性たちが色めきたったのを彼は覚えていた。
 リティシアを腕におさめた時、テオドールの口元に苦い笑みがうかんだのをしっかりと確認して、レーナルトは内心ため息をつく。

 リティシアは気づいていないのだ。彼女に魅力を感じている相手は意外に多いということを。 この男とリティシアを近づけてはならない。レーナルトは本能的にそれを悟る。見せつける様にもう一度彼はリティシアの頬に唇を寄せた。
 彼の顔にうかぶ表情を見て、優越感を覚える。彼がどれだけ願おうとも、リティシアはレーナルトのものだ。

 贅を尽くした晩餐会の後は、大広間での舞踏会だった。
まだ独身の隣国の皇太子と、その従兄弟の周囲は女性に囲まれて華やかだった。
 リティシアは夫の傍らからその様子を見守っている。ローザニアの貴族令嬢を兄や従兄弟が妻として迎えるのは悪くはないと思う。
 これから先、両国の絆が強くなれば十年の約束で結んだ無償通行権を延長することもできるのだし。

 テオドールの姿が見えなくなったのに気がついて、リティシアはレーナルトの側を離れた。彼はどこに行ったのだろう? 会場内をさ迷って、窓の側へとたどりつく。
「リティシア」
 テラスから、テオドールが手招きしている。リティシアはするりと舞踏会の会場を抜け出した。
「中にいなくていいの? 綺麗な女性がたくさんいるのに。戻っていらっしゃいよ」
 くすくすと笑いながら、リティシアは彼に手を差し出す。彼を会場に引き戻すつもりで。
 リティシアの予想とは違って、ぐいと強い力で引かれた。

「……困るわ」
 ぎゅっと抱きしめられてリティシアは困惑した。今まで彼がこんなことをしたことはなかったのに。
「ねぇ……離して?」
 ふりほどこうとしても、テオドールの腕はリティシアの身体を拘束したまま離そうとはしない。
「このままさらってしまおうかな」
 冗談めかした口調で、テオドールはささやいた。
「……どうして?」
 その次の動作をリティシアがかわすことができたのは、彼女としては上出来だった。とっさに後ろに背中をそらせ、顔の前に手にした扇子をかざす。

 正面から扇子に顔をぶつけたテオドールは、苦笑いでリティシアを離した。
「――あいつが好きか?」
「……愛しているの」
「……かなわないな」
 テオドールは、リティシアを見つめる。そして嘆息した。

「十年だぞ、十年」
「……何が?」
 十年という月日が長いということはわかっても、彼がその年月を何に費やしたのかリティシアにはわからなかった。
「おまえに求婚する資格を得るのに、だよ――レーヴェン家の息子とはいえ、養子。本当の父親は、それほど身分の高い貴族じゃない。王女に求婚するには分不相応だろ?」
「……そんなこと……」
 彼は一度も言ったことはなかった。いつだってリティシアを子ども扱いして――舞踏会で顔を合わせても一曲踊ってくれるかくれないかで――いつも他の女性の手を取っていたのに。
 リティシアを妹のように見ているとしか思っていなかった。

 確かにリティシアの夫になる人物として最有力候補であるのは知っていたけれど、彼の方からリティシアに何か言ってくれたこともない。
 父から話を持っていけば――しぶしぶリティシアを娶るのだと思っていた。

「やっと資格を得たのに、ヘルミーナが片づくまでは待てと言われて――待たされている間によその王にかっさらわれていたんだよな」
 テオドールは、リティシアの手を取った。リティシアはそれを拒まず、彼のなすままになっている。
「俺があの場にいたら、さらっていかせなかったのに」
 負傷していなければ、リティシアを隣国の王の目に届くところになんて行かせなかったのに。

「そんなこと……今、言われても困るわ」
 そんなこと知らなかった。彼はリティシアにとって兄のようなものだ。彼の気持ちを知っていたとしても――リティシアの想いが変わったかどうか。
「……そうだな、困るよな」
 苦笑して、彼はリティシアの手を離す。
「待つんじゃなかったよ、資格なんて言わないでなりふりかまわず行っておけばよかった」
 テオドールはリティシアの手をたたいた。

 そこにこめられているのは、兄としての感情だけであるのをリティシアは悟る。
「幸せを祈っているよ――兄として」
 それから、彼は身を翻して舞踏会の会場へと戻っていく。リティシアを残して。
「さて、ローザニア美人でも探しに行こうかな」
 と、笑い声だけがリティシアの耳に届いた。

「妻に手を触れるのはやめてもらいたい」
 すれ違いざまにレーナルトは、テオドールに釘をさした。本来なら襟首を掴んでやりたいところを、必死におさえる。手が震えていた。
 リティシアがいなくなったのに気がついて探しに来て――あんな現場を見ることになるとは思わなかった。
「――もうしませんよ」
 足を止め、テオドールはレーナルトに一礼する。
「あなたが彼女を幸せにしてくれるのなら、ね」
 その声は、国王の耳には届いていない。慌ててテラスに向かうレーナルトを見送るテオドールの視線の先では、リティシアが夫の胸に身を寄せていた。

 一週間ほど滞在して一行はファルティナへと出立した。リティシアの手配によって、持ちきれないほどの土産物を持たされて。
「――幸せにおなり、リティシア」
 テオドールはリティシアの額に唇を押し当てる。むっとしたのを隠そうともしないレーナルトに、彼は笑って見せた。
「兄に対してそう怒ることもないでしょう、陛下――それに、もう会うこともありますまい」
 よほどのことがない限り、一国の王族が気軽に国を出るわけにはいかない。

 リティシアが国へ戻ることも、アルベルトがローザニアを訪れることもない。アルベルトに従って、テオドールがこの国を訪れることももうないのだ。
「幸せだってきちんと父上に伝えておくよ。もう心配する必要はないってね」
 何人ものローザニア貴族から娘を勧められた兄は、国に戻ったら真面目に検討すると返したらしい。荷物の中には、何人もの令嬢の肖像画もおさめられている――らしい。

 出立していく一行を見送って、レーナルトはリティシアの肩を抱いた。
「あなたは――彼と結婚した方が幸せだったと思う?」
 リティシアの答えは早かった。

「いいえ」
 リティシアはレーナルトの胸にもたれかかる。小さくなっていく後ろ姿を見送りながら。
「きっとあのまま国にいたら……わたくしは何も見えていませんでしたから」
 リティシアを愛していたという彼の気持ちも見抜くことができなかった。

 けれど――リティシアは思う。きっと、テオドールに嫁いでいたら彼女は変わらないままだった。
 兄の後ろに隠れ、姉の後ろに隠れ、テオドールに守られたまま、ただ日々を過ごしていたに違いない。
 今とは違う。何の責任もない日々。きっとそれは今とは比べものにならないくらい穏やかな生活だったろうけれど――何のために生きているのかもわからなかったに違いない。

「レーナルト様」
 リティシアはそっとレーナルトに口づける。
「わたくしは……幸せです……」
 リティシアはそう言った。
 灰色だったリティシアの世界に色を与えてくれた人。リティシアのいるべき場所は彼の隣。
「戻ろうか」
「はい、レーナルト様」
 差し出された腕に、リティシアは手を添える。彼女はここで生きていく。これから先ずっと。


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