王の誓い
最初に女性が恐ろしいと思ったのは、いつのことだろう。記憶を掘り起こしてみても、レーナルトにはわからない。ただ、一番恐ろしいと思った女性は彼自身の母親だった。
夜中に目を覚まし、不安を覚えて母親の部屋に向かったのは五、六歳の頃だっただろうか。本来なら彼が夜中に子ども部屋を抜け出すのは禁じられていることだった。でも、禁じられているその行為を行わなければならないと彼が感じたのは――そこに何かの力が働いていたのかもしれない。
そっと母親の部屋の扉を開く。規則どおりならば、レーナルトの母親テレザがいるのはこの部屋ではなかった。彼女は大国ローザニアの王妃。隣国パティシアから嫁いできた王女。
テレザがいるのは王の部屋と共有の寝室とつながった王妃の間と呼ばれる一画でなければならなかった。居間、客間、王妃個人の寝室――そして王妃の寝室と王の寝室からのみ入ることのできる夫婦の寝室。
けれど、今彼女はそこにはいない。テレザがいるのは青の間と呼ばれる一画。王妃が使用するべき部屋ではない。王が亡くなり、皇太子が即位した後、先代の王妃が使うために設けられた部屋だった。
調度こそ王妃の間と同じくらい贅を凝らしたものが用意されているが、この部屋にいることは王室の中心から外れることを意味している。
「死んでしまえばいいのに……」
レーナルトが部屋に入ったとき、彼女は扉に背を向けて座っていた。
口の中でぶつぶつと呪文のようなものを唱えながら、手にした人形にぷちぷちと何本も針を差している。
「母上」
レーナルトが声をかけると、彼女はゆっくりとふり返った。
「あら、どうしたの? 夜中に子ども部屋の外に出るのは禁じられているでしょう?」
あかりを極限まで落とした部屋の中でも、母の顔が歪んでいるのがわかった。
「――わかりません。でも、母上が呼んでいるような気がしたから」
「あらあら」
くすくすと笑いながら、テレザはレーナルトを引き寄せる。
「あなただけね、わたくしのことを考えてくれるのは? お母様は、こんな扱いを受けなければならないいわれはないの。だって王女なのよ? わかるでしょう? こんなところに押しこめられて――だから殺してやるの。あの女も、あの男も」
ぎゅっと彼を抱きしめて、テレザはささやく。
「だから――ね? もう少しの辛抱よ。もう少し我慢すれば、あなたは国王になる。そうしたら、お母様とあなた、幸せに暮らしましょう」
テレザの腕の中で、レーナルトは身をこわばらせる。母の精神が崩れ始めていることを、彼は本能的に理解していた。
当時の彼には、男女間のことなどわかるはずもなかった。当時、ローザニアと同じくらいの国力を持っていた隣国から母が嫁いできたことも。
どうやら母は父を愛していたらしいことも。けれど父である国王の愛は母には向かなかった。嫁いできて一年もたたないうちに、トゥーリアという美しい黒髪の女性を寵愛するようになった。
それだけならよかった。先に世継ぎを生んだのは正妃のテレザだったし、国王が王妃以外に寵愛する女性を持つのも――王妃の感情は計算に入れないとすれば――よくあることだ。
けれど、情勢がよくなかった。パティシア国内は王位の相続権をめぐって乱れていて、隣国に嫁いだ王女のことまで気にかけている余裕はなかったのだ。
愛してもいない女を正妻の座に置いておくには、それ相応のうまみがなければならない。残念ながら、テレザはそれを国王に差し出すことはできなかった。たいそう美しい女性ではあったのだけれど――それだけでは足りない。
レーナルトの父親は、正妻であるテレザを王妃の間から青の間へと追いやった。
代々ローザニア王室の王妃が受け継いできた宝石類も取り上げてトゥーリアに与えた。さすがに王妃の地位を取り上げることまではしなかったものの、実質的な王妃はトゥーリアだった。パティシアはそれに何の抗議もしなかった。いや、できなかったのだ。
自然、人の足はテレザのもとには向かなくなる。青の間で孤独に暮らしていたテレザの精神が壊れ始めたのも、無理のないことだっただろう。
それから、レーナルトは母の部屋を訪れるたびに、人形に針を突き刺している母親の姿を目撃することになった。夫とその愛人を呪う母親の姿は、彼に強烈な印象を植えつけた。
だから彼は知らない。夫婦とは、家族とはどういうものなのかを。
レーナルトが十歳の時に、母が死んだ。まだパティシアの国内は乱れていて、孤独に死んだ王女のことなど誰も気にとめていなかった。
国民に対して体裁を取り繕うためだけに葬儀だけは盛大に行われた。
死んでよかったと思われていたのは間違いない。王とその寵姫を王妃が呪っているのは公然の秘密だった。それでも罰しなかったのは――王の最後の良心だったのかもしれない。青の間に追いやって、精神を破壊したのは王自身だったのだから。
唯一の救いと言えば、レーナルトを推す貴族たちのおかげでその前年にレーナルトが正式に皇太子として定められていたことだろう。愛されてはいなかったとしても、彼女が正妃であることは誰にも否定できるものではなかったから。
もっとも彼の地位は不安定だ。彼さえいなくなれば異母弟が王位を継ぐことになる。いつ殺されてもおかしくない。これから先自分の身は、自分で守らなければ。
誰も故人をしのぶことのない墓の前に立って、レーナルトはうつむいた。嫁いできた頃には祝福されていたのだろうに――。まだ十歳の彼には、父と母の間にあったこと全てを理解するのは難しかった。
「これ、王妃様にさしあげてもいい?」
ふいにかけられた少女の声に、レーナルトはふり返る。立っていたのは、彼より少し年下の目のぱっちりとしたたいそう可愛らしい少女だった。
遠縁の少女イーヴァ。庭師に作らせたのだろう。白の花ばかり集めた花束を腕に抱えている。
「王妃なんかじゃない!」
誰に向けていいのかわからない怒りを、レーナルトはその言葉に乗せて吐き出した。
「誰も――誰も、誰も母上のことなんか気にしていなかった」
精神を破壊されても。誰も見舞う言葉すらかけてくれなかった。レーナルトに求められているのは、王位を継いで、彼を推す貴族たちに権力とそれに伴う富を分配することだけだ。
「――そんなことないわ。だって、わたしにはとっても優しくしてくれたもの」
そうだった、とレーナルトは思った。誰も彼の母を気にかけてくれなかったというわけではない。イーヴァはよく王宮に出入りしていて、そのたびにテレザの部屋を訪れていた。
イーヴァが訪れた時だけは、テレザも人形に針を突き刺すのはやめていたという。息子の前でさえやめようとはしなかったというのに。
レーナルトは、目の前の少女を見つめた。イーヴァは、不幸な王妃の墓に花束を手向け、そっと手を組み合わせて何か祈っている。その真剣な横顔に視線が吸い寄せられた。
最初に会ったのは、もう四、五年前になる。彼女の言葉はまだまだ達者とは言えなかった。異母弟も彼女と似たようなものだった。
最初に顔を合わせたあの時から彼女を愛していたのだと、十歳の少年は初めて思い知った。愛とか恋とかを語るのには、まだ幼すぎる年齢だったけれど。
もっと力を手にしたら――いつか彼女に求婚する。
そのことだけを励みに、少年は努力を続けた。いつか名実ともに王になったその時には、彼女に隣にいてほしい。 それから十年以上が過ぎて、ローザニアはかつてない繁栄を誇るようになっていた。後継者争いが終わった後、誰も継ぐ者のいなくなったパティシアは、レーナルトが王位を継いで、今ではローザニアに併合されている。
彼には王妃が必要だった。もう二十代になった。国内が安定している今、彼にもとめられているのは王妃を娶って世継ぎをもうけることだ。
そして、妻にしたい女性は一人しかいない。
レーナルトは、神殿を訪れてイーヴァを呼び出した。
「――結婚してもらえないだろうか」
彼が切り出したのは、神殿の裏手にある丘だった。驚いたようにイーヴァの瞳が丸くなる。
「……結婚?」
イーヴァは一応巫女として神殿に仕えているが、それが兼行儀見習いであることを皆知っている。行儀見習いで神殿に入った者は、いずれ結婚して出て行くのが通例だ。
「考えてみたこともなかったわ――王妃になるなんて、あまりにも恐れ多いことなんだもの」
イーヴァは口を閉じた。彼女の脳裏に蘇ったのは、不幸だった王妃の姿なのだろうか。
「イーヴァを母上のようにはしない。約束する」
レーナルトは彼女の手を取った。イーヴァはそっとその手をひく。
「……無理よ。わたしは……だって、わたしは……わたしは」
レーナルトの表情が暗くなる。あんな王妃の姿を見れば、誰だって嫁ぐのに二の足を踏むだろう。
「無理強いはしたくないけれど――少しだけ考えてもらえないだろうか。一週間後に返事をもらいにくる」
それだけ告げて、彼は城へと戻った。そのことを後で後悔することになるとはまったく思わないまま。
返事をもらうはずだった日――彼は彼女が失踪したことを知った。それから一月後には弟も失踪したことを。
知らなかった。二人が愛し合っていることなど。知っていれば、イーヴァに求婚することはなかった。
本当は自分の足で探しに行くことができればよかった。けれど彼は国王だ。政務を放り出して二人を探しに行くわけにはいかない。
宰相に命じて捜索隊を作らせ、国内中を探し回らせて見つけ出すことができたのは、二人が失踪して半年後のことだった。
二人の身分からは考えることもできない。港町の貧しい地域に所帯をもって、それでも二人が幸せなのは部下の報告書に記された無機質な文面からでも容易に理解できた。
レーナルトは、すぐにその港町へと駆けつけた。
久しぶりに会ったウェルナーは日焼けして、すっかり海辺での生活に馴染んでいるようだった。彼女の方も、宮殿にいた頃は真っ白だった肌が、別人のような色になっている。
それでも、互いを見つめる目には、レーナルトが望んで望んで、そして手に入れることのできなかった輝きがあった。
「二人を罰するつもりはない。一言、言ってくれればよかったんだ。わたしを愛していないから結婚できない――とね」
レーナルトは笑った。その笑みが歪んでいないことを祈りながら。彼が愛するのは一人だけ――その人の幸福が彼のもとにはないというのなら、せめて相手の幸せを願おう。自分が身をひくことによって。
「急激に政局が変わってね――隣国の王女を娶ることになったよ。だから、二人ともわたしのことは気にしなくていい。神殿に話も通しておいた。戻って、婚礼の支度にかかるといい」
「レーナルト!」
愛しい人の声に耳を貸さず、レーナルトは急ぎ足にその場を離れる。これ以上、二人の姿を見ていたくはなかった。
「このまま北の国境に向かう。先に行って兵を取りまとめておいてくれ」
レーナルトは部下に命じる。さっさと戦を終わらせて、和平交渉に持ち込もう。国境を安定させるために、隣国の王女を妻にすることを条件にして。
愛することはできないけれど――大切にするから。一国の王女が受けるのにふさわしい敬意を払ってあなたに接するから。
だから――だから――だから――。どうか、どうか嫁いだ後も自分のことを不幸だとは思わないで。
まだ見ぬ北国の王女に彼は誓う。母のようにはさせないことを。
北のファルティナ王国とローザニアの間に和平条約が結ばれ、レーナルトと王女リティシアの婚約が成立するのは、これから一月後のことになる。
夜中に目を覚まし、不安を覚えて母親の部屋に向かったのは五、六歳の頃だっただろうか。本来なら彼が夜中に子ども部屋を抜け出すのは禁じられていることだった。でも、禁じられているその行為を行わなければならないと彼が感じたのは――そこに何かの力が働いていたのかもしれない。
そっと母親の部屋の扉を開く。規則どおりならば、レーナルトの母親テレザがいるのはこの部屋ではなかった。彼女は大国ローザニアの王妃。隣国パティシアから嫁いできた王女。
テレザがいるのは王の部屋と共有の寝室とつながった王妃の間と呼ばれる一画でなければならなかった。居間、客間、王妃個人の寝室――そして王妃の寝室と王の寝室からのみ入ることのできる夫婦の寝室。
けれど、今彼女はそこにはいない。テレザがいるのは青の間と呼ばれる一画。王妃が使用するべき部屋ではない。王が亡くなり、皇太子が即位した後、先代の王妃が使うために設けられた部屋だった。
調度こそ王妃の間と同じくらい贅を凝らしたものが用意されているが、この部屋にいることは王室の中心から外れることを意味している。
「死んでしまえばいいのに……」
レーナルトが部屋に入ったとき、彼女は扉に背を向けて座っていた。
口の中でぶつぶつと呪文のようなものを唱えながら、手にした人形にぷちぷちと何本も針を差している。
「母上」
レーナルトが声をかけると、彼女はゆっくりとふり返った。
「あら、どうしたの? 夜中に子ども部屋の外に出るのは禁じられているでしょう?」
あかりを極限まで落とした部屋の中でも、母の顔が歪んでいるのがわかった。
「――わかりません。でも、母上が呼んでいるような気がしたから」
「あらあら」
くすくすと笑いながら、テレザはレーナルトを引き寄せる。
「あなただけね、わたくしのことを考えてくれるのは? お母様は、こんな扱いを受けなければならないいわれはないの。だって王女なのよ? わかるでしょう? こんなところに押しこめられて――だから殺してやるの。あの女も、あの男も」
ぎゅっと彼を抱きしめて、テレザはささやく。
「だから――ね? もう少しの辛抱よ。もう少し我慢すれば、あなたは国王になる。そうしたら、お母様とあなた、幸せに暮らしましょう」
テレザの腕の中で、レーナルトは身をこわばらせる。母の精神が崩れ始めていることを、彼は本能的に理解していた。
当時の彼には、男女間のことなどわかるはずもなかった。当時、ローザニアと同じくらいの国力を持っていた隣国から母が嫁いできたことも。
どうやら母は父を愛していたらしいことも。けれど父である国王の愛は母には向かなかった。嫁いできて一年もたたないうちに、トゥーリアという美しい黒髪の女性を寵愛するようになった。
それだけならよかった。先に世継ぎを生んだのは正妃のテレザだったし、国王が王妃以外に寵愛する女性を持つのも――王妃の感情は計算に入れないとすれば――よくあることだ。
けれど、情勢がよくなかった。パティシア国内は王位の相続権をめぐって乱れていて、隣国に嫁いだ王女のことまで気にかけている余裕はなかったのだ。
愛してもいない女を正妻の座に置いておくには、それ相応のうまみがなければならない。残念ながら、テレザはそれを国王に差し出すことはできなかった。たいそう美しい女性ではあったのだけれど――それだけでは足りない。
レーナルトの父親は、正妻であるテレザを王妃の間から青の間へと追いやった。
代々ローザニア王室の王妃が受け継いできた宝石類も取り上げてトゥーリアに与えた。さすがに王妃の地位を取り上げることまではしなかったものの、実質的な王妃はトゥーリアだった。パティシアはそれに何の抗議もしなかった。いや、できなかったのだ。
自然、人の足はテレザのもとには向かなくなる。青の間で孤独に暮らしていたテレザの精神が壊れ始めたのも、無理のないことだっただろう。
それから、レーナルトは母の部屋を訪れるたびに、人形に針を突き刺している母親の姿を目撃することになった。夫とその愛人を呪う母親の姿は、彼に強烈な印象を植えつけた。
だから彼は知らない。夫婦とは、家族とはどういうものなのかを。
レーナルトが十歳の時に、母が死んだ。まだパティシアの国内は乱れていて、孤独に死んだ王女のことなど誰も気にとめていなかった。
国民に対して体裁を取り繕うためだけに葬儀だけは盛大に行われた。
死んでよかったと思われていたのは間違いない。王とその寵姫を王妃が呪っているのは公然の秘密だった。それでも罰しなかったのは――王の最後の良心だったのかもしれない。青の間に追いやって、精神を破壊したのは王自身だったのだから。
唯一の救いと言えば、レーナルトを推す貴族たちのおかげでその前年にレーナルトが正式に皇太子として定められていたことだろう。愛されてはいなかったとしても、彼女が正妃であることは誰にも否定できるものではなかったから。
もっとも彼の地位は不安定だ。彼さえいなくなれば異母弟が王位を継ぐことになる。いつ殺されてもおかしくない。これから先自分の身は、自分で守らなければ。
誰も故人をしのぶことのない墓の前に立って、レーナルトはうつむいた。嫁いできた頃には祝福されていたのだろうに――。まだ十歳の彼には、父と母の間にあったこと全てを理解するのは難しかった。
「これ、王妃様にさしあげてもいい?」
ふいにかけられた少女の声に、レーナルトはふり返る。立っていたのは、彼より少し年下の目のぱっちりとしたたいそう可愛らしい少女だった。
遠縁の少女イーヴァ。庭師に作らせたのだろう。白の花ばかり集めた花束を腕に抱えている。
「王妃なんかじゃない!」
誰に向けていいのかわからない怒りを、レーナルトはその言葉に乗せて吐き出した。
「誰も――誰も、誰も母上のことなんか気にしていなかった」
精神を破壊されても。誰も見舞う言葉すらかけてくれなかった。レーナルトに求められているのは、王位を継いで、彼を推す貴族たちに権力とそれに伴う富を分配することだけだ。
「――そんなことないわ。だって、わたしにはとっても優しくしてくれたもの」
そうだった、とレーナルトは思った。誰も彼の母を気にかけてくれなかったというわけではない。イーヴァはよく王宮に出入りしていて、そのたびにテレザの部屋を訪れていた。
イーヴァが訪れた時だけは、テレザも人形に針を突き刺すのはやめていたという。息子の前でさえやめようとはしなかったというのに。
レーナルトは、目の前の少女を見つめた。イーヴァは、不幸な王妃の墓に花束を手向け、そっと手を組み合わせて何か祈っている。その真剣な横顔に視線が吸い寄せられた。
最初に会ったのは、もう四、五年前になる。彼女の言葉はまだまだ達者とは言えなかった。異母弟も彼女と似たようなものだった。
最初に顔を合わせたあの時から彼女を愛していたのだと、十歳の少年は初めて思い知った。愛とか恋とかを語るのには、まだ幼すぎる年齢だったけれど。
もっと力を手にしたら――いつか彼女に求婚する。
そのことだけを励みに、少年は努力を続けた。いつか名実ともに王になったその時には、彼女に隣にいてほしい。 それから十年以上が過ぎて、ローザニアはかつてない繁栄を誇るようになっていた。後継者争いが終わった後、誰も継ぐ者のいなくなったパティシアは、レーナルトが王位を継いで、今ではローザニアに併合されている。
彼には王妃が必要だった。もう二十代になった。国内が安定している今、彼にもとめられているのは王妃を娶って世継ぎをもうけることだ。
そして、妻にしたい女性は一人しかいない。
レーナルトは、神殿を訪れてイーヴァを呼び出した。
「――結婚してもらえないだろうか」
彼が切り出したのは、神殿の裏手にある丘だった。驚いたようにイーヴァの瞳が丸くなる。
「……結婚?」
イーヴァは一応巫女として神殿に仕えているが、それが兼行儀見習いであることを皆知っている。行儀見習いで神殿に入った者は、いずれ結婚して出て行くのが通例だ。
「考えてみたこともなかったわ――王妃になるなんて、あまりにも恐れ多いことなんだもの」
イーヴァは口を閉じた。彼女の脳裏に蘇ったのは、不幸だった王妃の姿なのだろうか。
「イーヴァを母上のようにはしない。約束する」
レーナルトは彼女の手を取った。イーヴァはそっとその手をひく。
「……無理よ。わたしは……だって、わたしは……わたしは」
レーナルトの表情が暗くなる。あんな王妃の姿を見れば、誰だって嫁ぐのに二の足を踏むだろう。
「無理強いはしたくないけれど――少しだけ考えてもらえないだろうか。一週間後に返事をもらいにくる」
それだけ告げて、彼は城へと戻った。そのことを後で後悔することになるとはまったく思わないまま。
返事をもらうはずだった日――彼は彼女が失踪したことを知った。それから一月後には弟も失踪したことを。
知らなかった。二人が愛し合っていることなど。知っていれば、イーヴァに求婚することはなかった。
本当は自分の足で探しに行くことができればよかった。けれど彼は国王だ。政務を放り出して二人を探しに行くわけにはいかない。
宰相に命じて捜索隊を作らせ、国内中を探し回らせて見つけ出すことができたのは、二人が失踪して半年後のことだった。
二人の身分からは考えることもできない。港町の貧しい地域に所帯をもって、それでも二人が幸せなのは部下の報告書に記された無機質な文面からでも容易に理解できた。
レーナルトは、すぐにその港町へと駆けつけた。
久しぶりに会ったウェルナーは日焼けして、すっかり海辺での生活に馴染んでいるようだった。彼女の方も、宮殿にいた頃は真っ白だった肌が、別人のような色になっている。
それでも、互いを見つめる目には、レーナルトが望んで望んで、そして手に入れることのできなかった輝きがあった。
「二人を罰するつもりはない。一言、言ってくれればよかったんだ。わたしを愛していないから結婚できない――とね」
レーナルトは笑った。その笑みが歪んでいないことを祈りながら。彼が愛するのは一人だけ――その人の幸福が彼のもとにはないというのなら、せめて相手の幸せを願おう。自分が身をひくことによって。
「急激に政局が変わってね――隣国の王女を娶ることになったよ。だから、二人ともわたしのことは気にしなくていい。神殿に話も通しておいた。戻って、婚礼の支度にかかるといい」
「レーナルト!」
愛しい人の声に耳を貸さず、レーナルトは急ぎ足にその場を離れる。これ以上、二人の姿を見ていたくはなかった。
「このまま北の国境に向かう。先に行って兵を取りまとめておいてくれ」
レーナルトは部下に命じる。さっさと戦を終わらせて、和平交渉に持ち込もう。国境を安定させるために、隣国の王女を妻にすることを条件にして。
愛することはできないけれど――大切にするから。一国の王女が受けるのにふさわしい敬意を払ってあなたに接するから。
だから――だから――だから――。どうか、どうか嫁いだ後も自分のことを不幸だとは思わないで。
まだ見ぬ北国の王女に彼は誓う。母のようにはさせないことを。
北のファルティナ王国とローザニアの間に和平条約が結ばれ、レーナルトと王女リティシアの婚約が成立するのは、これから一月後のことになる。