最後の女神




美しい人

 平らな腹部に手をあてて、リティシアは首をかしげた。月のものがきていない。まるまる二月遅れている。
 身ごもったのだろうか、また。出産に関してはローザニア一の名医と言われているウィニフレッド・パウラーと面会の予定を入れなくては。
 三度の出産を経ても、リティシアの身体はすらりとしていた。

 細い身体のわりに、出産そのものは安産――痛みがなかったとは言わないが――だったらしいし、妊娠している期間もいたって健康でつわりもさほどつらくはなかった。
 問題はまだ三人目を出産してから一年たっていないということだ。夫は喜んでくれるだろうけれど、パウラー医師は何と言うだろう。

 たて続けに三人出産した後、少し身体を休めるようにと忠告されていた。出産後の女性の身体は疲れているのだから、と。
 夕食後ならば、彼女は時間を作ってくれるだろうか。素早く手紙をしたためて、使いを出すことにする。

 そんなことより、今日の予定に頭を切りかえなくてはならない。今日は、宮廷にたくさんの独身貴族令嬢がやってくることになっている。
 女性を中心に庭園で茶を楽しんだ後、舞踏会が開催されるのだ。
 リティシアにとっては相変わらず苦手な社交の場であるが、今日の招待客はリティシアより若い人たちばかりだから気楽に過ごせるだろう。

 コルセットはつけず、ふわふわとした甘い水色のドレスに袖を通す。結い上げた髪には共布で作った花とリボンを飾る。
 愛らしさを全面に押し出したドレスだ。若すぎるデザインではないかと夫に言ったのだが、
「あなたは可愛らしいのだから」
 と、強引に今日はこれを着るようにと決められた。すでに三人も子どもがいるというのに。
 正直な感想が許されるのなら、若作りだと思うが夫の趣味なら合わせるのもしかたのないところだろう。

 午前中に庭園の最終確認を行う。外に持ち出されたテーブルには茶器が置かれている。厨房で大忙しで焼かれている菓子も、どんどん運ばれてきてそれぞれのテーブルに並べられていく。
 茶会には男性の参加者はごくわずかだ。
 リティシアの夫であるレーナルトに、宰相のアーネスト。それに隣国エルディアの第三王子フェリックスとエルディア貴族何名か。

 隣国から、ローザニア貴族の娘を第三王子の妻に迎えたいと打診があったのは三ヶ月ほど前のこと。
 ローザニアほどではないが、エルディアも栄えている国だ。皇太子はエルディアの東と国境を接している国の王女を妻とし、第二王子は国内の有力貴族の娘を娶った。
 ローザニア王家から第三王子の妻を娶ることができれば、友好関係を強調することができるのだが、あいにくとローザニア王家には年齢の合う女性がいなかった。
 
 そこで、ローザニア王家と血縁関係のある貴族の女性たちの中から花嫁が選ばれることになったのである。
 選ばれた令嬢はレーナルトが後見人となり、王女待遇で嫁ぐことになる。
 集められた令嬢は四十名近く。今年十八になったフェリックスと年齢が釣り合うようにと下は十五から上は二十二歳まで。
 もっとも貴族の女性は若いうちに結婚するのが通例だからほとんどの令嬢はフェリックスより若い。

「できるだけ自然な形で会いたい。身分を隠して」
 との要求が、エルディア側から出されたため、今回王子の同行は伏せられている。名目上は、エルディアからやってきた親善使節団――花嫁を探している若い貴族含む――ということになっている。
 実際、今回の訪問客はフェリックス以外も大半が独身らしい。ローザニアの令嬢にとっても、リティシアの母国のような北方の小さな国ならともかく、ローザニアの東にある温暖な気候の国だ。悪い話ではないはずだ。

 あくまでも出会いは自然に、だ。作られた自然であったとしても。
 先に令嬢たちが庭園を散策し、気が向けばテーブルの茶や菓子に手をのばし、と楽しんでるところに独身貴族たちがふらりと合流する手はずが整えられている。
 
 午後になってリティシアは庭園へと出た。今日はリティシアは主役ではない。それぞれ輪になって話し込んでいる令嬢たちの間を縫うように歩いては様子をうかがう。
 話に入れない娘がいれば、適当な輪に入れてやって天気の話題でもふってやる。
 三年もローザニアの王妃をやっていれば、社交が苦手なリティシアでもこの程度のことはこなせるようになっていた。

 レーナルトは隣に立つ男を見下ろした。彼の隣に並んでいるのは隣国の第三王子フェリックス。どちらかと言えば小柄で、女性なら可愛らしいと思うのだろう。若さが目立つものの悪い男ではない。
 今も目をきらきらとさせて、
「ローザニアの女性は美しい方ばかりですね」
 と、庭園を行き来している華やかなドレスの女性たちに目を奪われている。

「いいか、フェリックス殿」
 レーナルトは彼の注意を喚起した。
「あなたはまだ妻に会ったことはないだろう」
 フェリックスがこの国を訪れるのは初めてだ。リティシアもエルディアを訪問したことはない。
「茶の髪、灰色の瞳。水色のドレスを着ているのが妻だ」
「……大半の女性が水色を身につけているようですね」

 今年のローザニアでは水色が大流行中だった。今日の招待客である令嬢たちも、ほとんどが淡いものから青に近いものとさまざまな色合いの水色のドレスを身にまとっている。茶の髪も灰色の瞳も珍しいものではない。
「背は高く細身で一番美しいのが妻だ」
 それは違うだろうと宰相のアーネストは後ろから口をはさみそうになった。背は高く細身と言うところまでは間違っていない。

 問題は「一番美しい」というところだ。大きな灰色の瞳が印象的ではあるものの、王妃の顔立ちは平凡なもので、悪くはないが「一番美しい」というところからはほど遠いところにいる。冷静な目で見れば。
 とはいえそこは臣下であるアーネストが口出しできるところではないわけで、丁寧にフェリックスたちエルディア貴族の一行を、適切な女性の輪へと送り込む。

「縁談がうまくまとまるといいですな」
「そうだな」
 思い思いの女性に声をかけているエルディア貴族たちを見ながら、レーナルトとアーネストは顔を見合わせた。
 それから二人も別々の輪へと加わる。リティシアの姿が見えないのには、二人とも気がついていなかった。

 その頃リティシアは、少し離れたベンチに腰をおろしていた。人の輪から離れたここは、生け垣の陰になっていて他の人の目にはつきにくい。
 なんだか胸がむかむかする。人に酔ったのか、日に当たりすぎたのか。それともつわりが始まってしまったのだろうか――。

 今まではさほどつらくはなかったのだけれど、女性の身体というものは妊娠のたびに違う変化をするのだとパウラー医師は言っていたような気がする。
 いつまでも姿を隠しているわけにもいかない。そろそろ招待客も合流する頃だ。夫のところに行かなくては。
 リティシアは腰をあげると、人の集まりの方へと戻り始めた。

 フェリックスは、向こう側から歩いてくる女性に目をとめた。流行中だという水色のドレス。髪は明るい茶。瞳は――おそらく灰色。王妃と同じ特徴だが、美人ではない。ローザニアの王妃ともなれば絶世の美女だろう。国王も「一番美しい」と強調していたのだし。
 それに王妃はもう二十五の大年増で、三人も子どもがいるという話だ。あんなにすらりとしているはずがない。あれは王妃ではない、と彼は確信する。
 
「少し――よろしいですか?」
 フェリックスは彼女に声をかけた。
「……わたくし……ですか?」
 落ち着いた声だ。
 たぶんフェリックスより少し年上だろう。わずかに首をかしげているのが可愛らしい。
 美女と言うほどではないが、顔立ちは悪くないし、所作の一つ一つに品がある。彼女ならエルディア王家に迎え入れても恥ずかしくない。
 何よりそこにいるだけで庇護欲をそそるような雰囲気があって、思わず手を差し伸べたくなる。
 ――恋に落ちた、とフェリックスは思った。

 リティシアの方は困惑していた。目の前にいるのはリティシアの知らない青年、というよりは少年の雰囲気を残した若者だ。エルディアの貴族の一人であることは服装から判断できる。
 自分に向けて両腕を広げ、今日はいい天気だとかしゃべっているのだが……どう対応したらいいのだろう。おそらく、貴族令嬢の一人と勘違いされている。
「あ、あの……わたくし……」
 名乗るのが一番早いだろう。リティシアが口を開こうとした時。

 両手をがしっと握られた。
「お名前は?」
「リ……リティシア」
「リティシア! 可愛らしい名前だ!」
 握られた両手をぶんぶんと上下にふられる。思わず名乗ってしまった。リティシアの困惑はますます深くなる。

「王妃殿下と同じ名前ですか。奇遇ですね!」
 目の前の若者はわかっていない。同じ名前なのではなくて王妃本人なのだが――。リティシアという名前自体珍しい物ではないのは事実だ。今日の招待客の中にも二人ほどリティシア嬢がいる。
「あの、わたくし――」
 この若者に誤解だと早く告げなければ。自分は王妃と同じ名前なのではなく王妃本人なのだと。

「……フェリックス殿。庭園内にいる女性は全て独身だとは言ったが、一人だけ例外がいるのをお忘れかな? あなたが手を握りしめているのは――わたしの妻だ」
 ご満悦のフェリックスの背後から、その場の空気を凍りつかせるような低音が響いた。
「お……王妃?」
 目を丸くして、フェリックスはリティシアを見つめる。苦笑いして、リティシアは彼の手から自分の両手を引き抜いた。
「ローザニア王妃リティシアです。フェリックス殿下」
 そして優雅に一礼するリティシアに、フェリックスは慌てて礼を返したのだった。

 話を聞いて、リティシアは笑い転げた。
「それは陛下がいけませんわ。『美しい』と言ったらシーリア嬢のような方を思い浮かべるでしょう」
 名前のあがったシーリア嬢というのはリティシアと同じ髪色と瞳の色を持つ令嬢だ。大流行中の水色を身につけているのも同じ。ローザニア一の美女に限りなく近い場所にいる。
「ですから……違うドレスにしましょうと言ったではありませんか。子どもがいるのに着るようなデザインではありませんもの」

 もう少し年相応の服装をしていれば、独身女性と間違えられることはなかったのに。
「可愛らしくて似合っているのに」
 つまらなそうな表情になって、レーナルトはリティシアを引き寄せた。
 まだ笑いながらリティシアはレーナルトを見上げる。

 その様子を見るだけで、フェリックスには二人が愛し合っているのがよくわかった。
 羨ましい。結婚して五年以上たっているはずなのに、夫が妻を見る目も、妻が夫に向ける目もとても優しい。
「お二人のような夫婦になれるように――素敵な女性を探すことにしますよ」
 負け惜しみではなくそう言って、フェリックスはその場を離れると、令嬢たちの輪の中へと入っていった。

 舞踏会を欠席したリティシアのもとを訪れたパウラー医師に、リティシアはさんざん絞られた。
 絞られた後、リティシアは夫婦で使っている寝室へと向かう。
 先に待っていたレーナルトは、寝室に入ったリティシアを抱えてあっと言う間にベッドに転がしてしまった。

「……だめですっ……」
 あらがうリティシアの手を押さえつけて、レーナルトは右の手首に唇を押しつける。
「彼が触れたのは、ここか?」
 唇を離して、もう一度。
「それとも、ここ?」
 リティシアの手のひらに口づけ、今度は左手にうつる。
リティシアがくすぐったがるのもかまわずに、レーナルトはリティシアの手を愛撫し続ける。

「ほかの男に手を握らせるなんて……」
「……だっていきなりだったのですもの」
 睫をふせたリティシアの瞼にレーナルトはキスを落として笑う。
「あなたには反省してもらわないとだな」
 夜着の紐を解こうとしたレーナルトの手をリティシアはそっと上から押さえた。

「……しばらく……ひかえてください。……です……から」
 リティシアの言葉の最後は、レーナルトにはよく聞き取ることはできなかった。レーナルトはもう一度聞き返す。
「今、何と?」
「……四人目です、陛下」
 喜びの声をあげて、レーナルトはリティシアを抱き上げた。

 そして彼女を抱えたまま部屋中をくるくる回ると、派手な音を立ててリティシアの頬にキスをする。
「次は姫がいいな! あなたそっくりの」
「……わたくしに似たら悲劇ですわ」
「そんなことはない。あなたに似たら絶対美しくなるに決まっている」
 そうレーナルトは断言したのだが、王女が産まれたのはそれから五年以上たってようやくなのだった。


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