最後の女神




直哉とわたし

 人が人を好きになるのって理由なんて必要ない。少なくとも、わたしの場合はそうだった。
 なにしろ相手は生まれた時からわたしのことを知っている――おまけにわたしのことを利用しているのだから救いがないって自分でも思う。
 それでも気持ちは抑えようがなくて、呼ばれるたびにいそいそと出かけて行くのだから、愚か者としか言いようがない。

「ずいぶん余裕なんだな?」
 下にいる男が、ぐいと腰を突き上げた。その勢いで、わたしの背中は勢いよくそる。
 ベッドが部屋の大半を占めるラブホテルの一室。いつも同じホテルを使っていたから、この部屋を使うのも何度目になるのかわからない。
「え……? ん、あ、あぁ……ちが……!」
 ことの最中に余裕があったわけじゃない。目の前の現実から目を背けたかっただけ。「上にいるんだから、ちゃんと動けよ」
 いつだって彼は余裕だ。憎たらしいくらいに。
 両足で彼の腰を挟み込みながら達すると、すかさず上下を反転させられる。
 彼が満足するまで、それほど長い時間はかからなかった。
「シャワー浴びてくる」
 何も身につけないまま床に転がった服を拾い集めて、浴室に向かう。
 欲を吐き出した彼は、もうわたしには興味を失ったみたいだった。

 シャワーが適温になる前に、そのまま顔をつっこんだ。冷たい。じわじわと水温が上がっていって、やっと適温になる。
 彼と寝た後はいつもこうだ。繋がっている最中は、満たされるつもりなのに終わってみるととたんにむなしさが襲いかかってくる。
 それでもやめようと思えないのは、どんな扱いを受けても彼が好きだから。手がとどかないってわかっていても気持ちなんて抑えられない。
 呼び出されればできるだけ都合をつけて、のこのこと出てきてしまう。馬鹿だって自分のことを何度罵っても。

 乱暴に身体を洗って、シャワーを終えた。繁華街のラブホテル――三時間の休憩時間が終わる前に急いで出なければ。
 毎回彼はホテル代を負担してくれるけれど、延長料金まで払わせるのはどうかと思うから。
 安っぽいソファに置いてあった通勤用の鞄を取り上げる。
 先月買ったばかりの新しい鞄。彼が誉めてくれるなんて期待してたわけじゃないけど、やっぱり新しい鞄に気がつかなかった。
 服装を変えても、髪型を変えても気づかないのだから鞄くらいじゃ気づかないのも当然。だからわたしもそれを受け入れて、気にしていないふりをして次の台詞を吐く。

「もう帰るね」
「おう。また連絡する」
 わたしが振り返った時、彼はちょうどベッドから出ようとしているところだった。
 彼は初めて身体を合わせた時から変わらない。三十三歳、ごく普通の会社員という年齢と職業の割には明るすぎる茶色の髪は生まれつきのもの。
 以前は染めていたこともあるみたいだけど、働き始めるのと同時に染めるのはやめたらしい。程良く筋肉のついた身体、引き締まったお腹。
 全部が愛おしいと思う。わたしの手に入ることはないけれど。

「連絡なんて、別に待ってもないけど」
 本当は待ってる。毎日毎日待ってる――他につきあっている人がいる時でさえ。彼の連絡一つで簡単に身体を開くわたしは、とてもお手軽な相手。
 だから、わたしも軽い口調を装って口角を上げて見せる。
「ばいばい、直哉兄さん」
 わたしのその言葉に返事はなかった。

 平日だというのに、繁華街には人が溢れている。その中を急ぎ足に縫って歩くわたしは、完全に集団に紛れていた。
 先ほどまで過ごしていたラブホテルからは電車で数駅。そこからさらに徒歩十五分。

 集合住宅ではなく、戸建ての住宅が並んでいる住宅街にあるのがわたしの実家、そして現在住んでいる場所だ。父と母、それに妹の四人暮らし。
 比較的古い時期から住んでいるわたしの実家は、4LDKで、わたしと妹に個室を与えられる程度の広さがある。
「ただいまー」
「お帰りー」
 玄関を入って正面にあるのは、二階へと続く階段。そして階段の先がリビングだ。階段を上がってリビングに向かう。ソファには母と妹の結が座っていた。映画のDVDを見ているみたいだった。

「残業?」
 ソファから立ち上がった母が聞く。
「まあね」
「夕飯まだよね? すぐ用意するから」
 家のキッチンはリビングの端にあるカウンターキッチンだ。カウンターを回って母が向こう側に行く。
「ご飯は自分でよそうから、ちょっと待ってて」
 鞄を母が立ち上がった場所に置くと、結が意味ありげな表情を作って見せた。
「本当は違うでしょ。彼氏?」
 妹は妙に鋭い。わたしは、妹にはかなわないのだな、と痛感させられる。

 いつも願っていたような気がする。自分の名前が結でありますように――と。好きな相手に沈黙を貫くより、好きな相手と結ばれる方がいい。
「言える? ホテル行ってましたなんて」
 そう言うと、結は妙に納得した表情になった。
 言えるはずないでしょう。直哉とついさっきまで絡み合っていました、なんて。
「ねえ、いつ彼氏連れてくるの? いつもそのうち、なんて行ってるうちに別れるんだから」
「それはわたしの責任じゃないもん」
 ぷぅ、と頬を膨らませて見せる。彼氏がいるふりをしているけれど、つい先日ふられてしまったばかりだ。

 わたしの中に、他の人の存在を感じるのがイヤなんだって。そう言われてしまったら、別れを受け入れないわけにはいかない。だって、わたしの中から直哉を追い払うことなんてできないのだから。
「静、手を洗ってらっしゃい。うがいもね」
「はーい」
 そんなことを言われるなんて子どもか。けれど、言われたことはもっともだし、帰宅後の習慣でもあるし、母に逆らうのは得策ではないので、わたしはおとなしくうがい手洗いに向かう。

 魚の煮付け、おひたし、お味噌汁。ご飯をよそって、カウンターテーブルに置く。家族そろって食事をする時はリビングのテーブルだけど、今は一人だからカウンターだ。向こう側でなにやらかちゃかちゃやっているわたしは、母と向かい合う位置に座ることになった。
「いただきま――」
「直哉君のことなんだけど」
 ふいうちで名前を出されて、あやうく味噌汁を吹き出しそうになった。
「……な、直哉兄さんがどうかした?」
「誰かいい人いない?」
「はあ?」
 話題についていけなくて、変な声を上げてしまった。

「もう三十三になるっていうのに、彼女の一人も連れてこないって玲子さんが心配してるのよ。静の友達にいい人いたらって」
「……玲子伯母さんも過保護なんだから」
 深々とため息をついて見せた。
 母が言う直哉君、というのはつい先ほどまでホテルで絡み合っていた男だ。
「直哉兄さんだっていい大人なんだから、結婚したい相手がいたら自分で連れてくるでしょうよ」
「彼女とっかえひっかえしてて結婚するどころじゃないんじゃないの?」
 ソファで映画を見ている結が茶化した。

「それじゃもっと問題じゃないの。いい年なんだから落ち着いてもらわないと」
 わたしを間に挟んで、会話が頭上を往復する。わたしは会話から、意識をそらした。
「あ、帰ってきたみたい」
 ソファを立った結が、カーテンを少しあける。車の音が響いてきた。
「本当ね」
 近づいてきた車の音は、隣の家の前でとまった。続いてガレージのシャッターを開く音。直哉と定期的に寝ている関係だなんて、家族には絶対に言えない。
「あの家に一人で住むって聞いた時は、てっきりお嫁さんと一緒だと思っていたのに」
「……一人じゃ広いわよね」
 母と妹が会話しているのにはそれ以上耳を傾けず、わたしは自分の食事に集中することにした。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ