最後の女神




気づいた気持ち

 直哉は一人のまま戻ってきた。結婚すると思っていたのに、そんな話はいつの間にか流れていたらしい。戻ってきた直哉は自分の両親のところに行った後、すぐにわたしの家にも挨拶に来た。
「てっきり結婚すると思っていたのに――一人で住むのなら、ご飯にいらっしゃい。一人分余計に作ることくらい、どうってことないんだから」
 一人暮らしでは栄養が偏るだろうと、母が彼を夕食に呼ぶのはごく自然な流れだったと思う。
「叔母さん。自分のことは自分でできるよ」
 戻ってきた挨拶に来た直哉に向かって、母は家に夕食に寄るよう強く勧めるのを彼は首を横に振って断った。
 
「あなたが栄養失調で倒れたらどうすればいいの?」
「大げさだな。うちの両親も駅前にいるのに。いざとなれば、『飯食わせてくれ』ってそっちに行けばいいんだから」
 直哉が言うように、伯父さんも伯母さんも駅前のマンションに住んでいる。ここからそんなに遠くない。仕事の帰りに寄るなら、駅前にある二人のマンションの方がよほど楽なはず。
 けれど、母も引かなかった。
「玲子さんにも頼まれているのよ」
 わたしの母にそう言われてしまったら、直哉も逆らえないらしい。

 この関係が普通じゃないのはわかっている。隣同士が親戚で、友人同士で、子育ても協力しながらやってきた、なんて滅多にあるケースじゃない。
 というより、母も伯母さんも直哉を甘やかしすぎなんだと思う。世の中の一人暮らしの男性は、自分の食生活くらい自分でどうにかしているはずなのだ。
 直哉は固辞したけれど、時々は夕食を付き合うことを最終的には受け入れさせられていた。ちょっと気の毒だと思う。だって、そんな風に甘やかしているから、いつまでも自立しないんじゃないか――って自立できていないわたしが言うのも変な話なのだけれど。

◆ ◆ ◆

 うちの母はどこまでもおせっかいみたいだ。
 ある土曜日の午後、わたしは隣家に行かされた。というのも、日持ちのするおかずを持たされたから。持たされたタッパーに入っているのは、牛肉を甘辛く煮つけたものと、ひじきの煮物。ひじきの方は冷凍しておけるように小さなタッパー三つに分けてある。
「直哉兄さん、お母さんが後で食べてって。今日は出かけるの?」
 予定がなければ、家に夕食を食べにくるけれど、今週は来ないんだそうだ。だから、こうしておかずを持たされているわけなんだけれど。
 三人で暮らしていた頃より小さくなった冷蔵庫を勝手に開いて、適当な場所に持たされたおかずをしまい込む。
 これでわたしの役目はおしまい。早く家に帰って支度しないと――今日は長谷川君との予定がある。

 ぱたぱたと玄関に向かおうとするわたしを、直哉が呼び止めた。リビングの入口のところで向かい合う形になる。
「……飯に行かないか?」
「無理。今日はデートなの」
 わたしはにっこりとして、直哉の誘いを断る。直哉は驚いたように目を見張った。それほど驚くこと? わたしにだって付き合いくらいある。

「デート?」
 そう聞き返す彼の声は、どこか間が抜けて聞こえた。
「そう。彼氏がいるの」
 もう一度にっこりとして返す。直哉を前にして、こんなに余裕だったことがあっただろうか。
 いつまでも都合のいい相手でいたくない――そんな考えが横切った瞬間、胸がぎゅっと締め付けられる。
 都合のいい相手でいたくないとか本人を目の前にして考えているのが何よりの証拠じゃないか。まだ吹っ切ることなんてできてない。

 ばかばかしいと、他の人なら言うのだろう。そんなの愛でも恋でもなくて思い込みだと。生まれた時から常に直哉は身近にいて、常に十歳離れていたからずいぶん大人のように見えていた。
 ただ、それだけの話。
「やだなあ、この年になって彼氏が一人もいないなんて思ってたわけじゃないでしょ」
「それはまあ、そうだけどな。じゃ、来週はどうだ?」
 しばらく黙り込んだ彼がようやくそれだけ言う。変なの。直哉がこんなにわたしの予定を気にするなんて。
「……彼に悪いからやめておく」
 わたしのこの返事は、直哉を苛立たせたみたいだった。
「飯ぐらいいいだろ。別に彼氏にやましいことをするわけじゃない――昔は違ったみたいだけどな」
 確かに他の人と付き合っている時に、直哉の誘いに応じたこともある。古い過去、忘れ去った過去、なかったことにしたいと思っても、指摘されれば俯いてしまう。

「……そうね、そんなこともあったね……」
 あの頃のわたしは、傷ついていたのだろうか。どれだけ背伸びしても直哉には届かないとわかっていても、背伸びしないではいられなかったあの頃。
「なら、いいだろ。飯くらい」
 どうして直哉がわたしにこだわるのかがわからない。わたしは目をそらした。
「……行かない。やめたの、そういうのは……ご飯も無理」
 直哉が大きく息を吸い込んだ。そのまま黙り込んでしまう。
「ずいぶん堅苦しく考えるようになったんだな。いとこと飯食いに行くのがそんなに大げさなことか?」
「大げさ?」
 わたしは、きゅっと手を握りしめた。塞いだはずの胸の傷が疼く。

「たぶん、たいしたことじゃないと思う。他の人なら、迷わずに行くと思う。でも、わたしは嫌なの。今付き合ってる彼のことが好きだから。結が一緒なら……行く」
 口にしてしまえば、自分でも予想外なほどにすとんとその言葉が胸に落ちてきた。そうか、わたしはとっくに長谷川君が好きになっていたんだ。
 目の前の直哉が欲しくてしかたなかった頃――わたしはいつも苦しかった。

 堂々と彼の隣にいることのできる女性が妬ましくて、妬ましくて。
 どうしてもう少し早く生まれてこなかったんだろう。
 どうして、彼と親戚に生まれたのだろう――そうじゃなかったら、彼の隣に並ぶことができたかもしれないのに、と。
 見当違いの嫉妬に胸をわしづかみにされるのって愉快な経験じゃない。

「今の彼ね、すごく優しいの。年下で最初は頼りないかなって思ったけど――」
 よく考えてみれば、正面から直哉の顔を見るのはずいぶん久しぶりだったかもしれない。いつも、気まぐれに与えられる逢瀬を待ち望んでいて、いざ与えられたらその次を期待して。
 その気持ちが絶対顔にも言動にもあらわれてた。わたしよりはるかに恋愛経験を積んできた直哉がそれに気づいていないはずはない。それをいいように利用されてきた。わたしはどこまでも都合のいい相手。

「一緒にいて、すごく楽に呼吸ができるの。安心感っていうのかな。今まで付き合ってきた人たちも、本気で好きだって思っていたけれど、何か違うの。絶対に失いたくないって思ってる」
 付き合っている人に対する想いを、こんなに正面から直哉にぶつけたことはなかったと思う。
 今までだって、真剣に付き合ってきたつもりだったけれど、真剣になりきれなかった人がいた事実も否定できないけれど、それを全部ひっくるめて考えても今一番大切なのは長谷川君だ。
 直哉の顔が歪んだ。
「……そうか」
 直哉がくるりと向きを変えると、手の中から白い箱が転げ落ちた。

「直哉兄さん。何か落とした」
「ん? あ、ああ……」
 直哉は屈んで箱を拾い上げる。
「割れ物?」
 けっこう勢いよく転げ落ちたから、中身が壊れていないか心配だ。
「いや」
「ならよかった。もう行かないと」
 自分の気持ちを認めてしまえば、こんなにも楽になれる。早く長谷川君に会いたくて、わたしはスキップしそうな勢いで自分の家へと戻った。
 ようやく気付いたこの気持ちを彼に伝えないと。その気持ちがわたしをせかした。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ