最後の女神




絶対に裏切れない人

 直哉が戻ってくると聞いたのは、それからしばらくした頃だった。彼が転勤してから、二年以上が過ぎようとしている。まだ当分戻ってこないだろうと思っていたから、その話を聞かされた時は、正直なところ驚いた。
 それを教えてくれた母は、キッチンでジャガイモの皮を剥いているところだった。今夜はフィッシュアンドチップス――というか魚のフライとフライドポテトだ。
 わたしはその横で、皮を剥いたジャガイモをちょうどいいサイズに切り分けていた。動揺したのを悟られないように、平静を装って次のジャガイモをまな板に置く。

「どこに住むの? 駅前のマンションに親子三人ってちょっと狭くない?」
 大丈夫、声が震えたりしなかった。用心深く発した言葉は、いつもと変わりない響きだったはず。
 あのマンションは2LDKだから、住もうと思えば住めるんだろうけれど、直哉の荷物まで入る余地があるようには思えなかった。
「隣に戻ってくるんだって」
「隣って……賃貸に出していたよね?」
「うん。でも、二ヶ月前に引っ越していった後まだ借り手がついてなかったでしょ」
「あれ、そうだったっけ?」
 そう言えば、お隣がずいぶん静かだなとは思っていたけれど、子どもたちと接する機会なんてないから引っ越していたのに気づかなかった。

「引っ越していたのなんてすぐに気づきそうなのに」
「……ちょっと見てくる」
 リビングの窓から隣の庭を見てみると、たしかに庭に停まっていたたくさんの自転車がなくなっている。
「引っ越していたでしょ」
「引っ越してた」
 実際のところ、隣家に興味はなかったから自転車の数が減っていたところで気づかなかったと思う。

 母は鈍いわたしを見てくすくすと笑うと芋を揚げる準備を始めた。魚はもう下準備はしてある。
「でも、隣に直哉兄さん一人だなんてずいぶん贅沢。あんなに広いのに」
「一人じゃないかもよ?」
 母の言葉に、テーブルを拭いていた手が止まってしまった。
「結婚……する……の?」
 自分でもみっともなく声が震えてしまっているのがわかった。声が震えたのは、母にも気づかれてしまっただろう。慌てて視線をそらして、テーブルを必要以上の力を込めて磨く。

「……おかしくはないでしょう? もういい年だもの」
「……そうね。いい年、だものね」
 母は、わたしの様子がおかしいのは気づかなかったことにしてくれたようだった。
 親の前でこんな醜態を晒すことになるなんて。動揺してしまって、何度も何度も同じ場所を拭いてしまう。
 どうか、彼の前では醜態を晒すことになりませんように。
「あなたはどうなの?」
「わたし?」
 母の問いに、また手がとまってしまった。

「あなただっていい年なの忘れた訳じゃないでしょ」
「まだ早いでしょ。まだ二十代なんだから」
「三十になってから焦っても遅いんだから。いい人くらいいないの?」
「……いたらさっさと連れてきてる」
 自分が適齢期になっていることなんて、今さら気づかされたくなかった。そうでなくても、結婚する友人が増えて、最近は肩身が狭いのだ。
 
 この会話の間に長谷川君のことが頭に浮かばなかったと言えば嘘になる。
 彼とは、ぼつぼつメールをしたり、時々会社の帰りに待ち合わせてお茶をするくらいの関係が続いていた。
 メールの内容も前と変わらなかった。けれど、あいかわらず何もない日々に、少しだけ潤いみたいなものが生まれたような気がする。
「……お見合いでもしてみる?」
「冗談でしょ!」
 この時代にお見合いなんて言葉が出てくるとは思わなかった。鍋に油を入れながら、母はわたしに指を振ってみせる。

「ぐずぐずしてたら行き遅れになるから」
「……急いで結婚したいとも思わないんだけど」
「そう言って、年取ってから後悔したって遅いんだからね。そうだ、玲子さんにお願いしてみよう」
 玲子伯母さんにお願いしてどうにかなるなら、直哉の方を先に結婚させるんじゃ……と思ったけれど、母は夕食後に本当にメールをしたらしい。
「いい人いないか、気にかけておくから」
 そう記されたメールの画面を見せられて、わたしは肩を落とした。

◆ ◆ ◆

 長谷川君は、お茶以外にはわたしを誘おうとしなかった。それが不満かどうかといえば、そんなこともなくて、仕事帰りの一杯のコーヒーがわたしにとっての癒しだったりする。
「お見合い、ですか」
「バカバカしいでしょ、この時代にお見合いなんて」
 わたしの友人にもお見合いした人はいるけれど、それが自分に関係ある、なんて考えたこともなかった。
「……バカバカしくなんてないですよ」
「そう?」
「俺の友人にもお見合いで結婚した人いますし」
「うまくいっているの?」
 長谷川君はにこりとしてわたしをみた。

「すごくうまくいっていますよ。だけど――」
「けど?」
「静さんにはお見合いなんてして欲しくないです」
 ストレートにそう言われてしまったら、わたしとしても苦笑いするしかない。お互いの内面をさぐり合うのは得意じゃない。いい加減な付き合いしかしてこなかったツケを今払っているところだ。

「……俺ではだめですか?」
 長谷川君の方もさぐり合いは得意じゃないみたいだった。彼が何を考えているのか、前にも一度きちんと言葉にしてくれたことがある。
 その時は、急に距離をつめたいなんて思わなかったけれど、今はわたしの気持ちも変化している。
「前にも言ったと思うけど……」
「ずっと好きな人がいるって?」
「……そう」
 たぶん、直哉に感じているのは恋心なんかじゃないと思う。あまりにも長い間、彼しか見ていなかったから、今でも引きずっているだけのこと。
 
「その人のことを忘れてくれとはいいません。それでもだめ、ですか?」
 まっすぐな目をして、そんな風に言われたらどうしたらいいのかわからなくなってしまう。誰かに甘えてよりかかりたくなるってこと今までにだってたくさんあった。
 わたしが大事だって目にも声音にも表れているから、甘えたくなってしまう。迷惑かけてしまうってわかりきっていても。
「静さん」

 長谷川君の声は穏やかだった。この人に手を貸してもらったら、直哉が結婚するって聞いてもまっすぐ立っていられるかもしれない。
「……静さんが望まないことはしません。一緒にいてくれるだけでいいんです」
 いいのだろうか。この人の想いを受け入れても。
「……よろしく、お願いします」
 気がついたら、長谷川君に頭を下げていた。
 今まで同じ過ちを繰り返すんじゃないかって心配になったけれど――今回だけは繰り返さない。自分に強く言い聞かせた。

◆ ◆ ◆

 付き合い始めてからも彼は変わらなかった。
 時々のメールと仕事帰りのお茶、それに二人で出かけることが増えたくらい。
 本当に一緒に出かけるだけで、彼は満足しているのかな――って考えてしまうこともあった。夕食を食べた後も、日付が変わる前にはきちんと家に送り届けられていたし。
「……あのね、……その、このままで、いいの?」
 わたしがそう言ってたずねると、長谷川君は笑った。
「静さんがそのつもりになるまで、俺はいくらでも待ちますよ」
 にこりとして、長谷川君は手を差し出す。指を絡めて手をつなぐやり方は心地よかった。

「ごめん、ね……」
「気にしないでください」
 わたしが謝ると、長谷川君は笑顔を向けてくれる。彼のその表情を見ると、胸が温かくなった。
 この人だけは裏切っちゃいけない。
 どんどんわたしの中で長谷川君の存在が大きくなっていって、もっともっと彼と近づきたいってそんな風に考えるようになるまでそれほど長い時間はかからなかった。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ