最後の女神




ただ、会えればいい

 電話越しに彼の声を聞くのは初めてだった。彼とは家でしか会わなかったし、最初で最後二人で出かけた時も、とてもわかりやすい場所だったから電話なんてしなかった。電話を通して聞くと、実際に顔を合わせている時より少し声が低く聞こえるような気がする。
「……あの、今大丈夫ですか?」
 電話ごしの彼の声は、少しためらっているようにも聞こえた。
「今外にいるんだけど……何か用?」
「いえ、予定があるならいいんです。ただ――時間があったらお茶でもどうかな、と思って」
 どうしてだろう。胸の中で、何かが音を立てた気がした。きっと、他の人に同じことを言われたとしても、こんな風に胸が動かされることはなかっただろう。

「お茶? ……ちょっと待って……これから買い物に行こうと思ってるんだけど、それが終わってからでよかったら」
 何でそんな風に返してしまったんだろう。メールでやりとりしていた間、彼と会いたいなんて一度も思ったことはなかったのに。
 けれど、一度口に出してしまった言葉を元に戻すことなんてできるはずもない。午後、待ち合わせの時間を決めると、わたしは電話を切った。

 新婦のカラードレスの色とかぶるのは避けたい。彼女は淡くて明るい色が好きだから、濃いめで暗い色にしておけば新婦と同じ色を着ているという印象は避けられるだろう。
 何軒か回った後、わたしが選んだドレスは緑と黒を使ったものだった。生地の大半は深い緑。ところどころ使われている黒がアクセントになっている。スカートは二重になっていて、取り外すことができる。外すとミニ丈のドレスになるけれど、ミニ丈で着る機会はなさそうだ。
 試着して、サイズを直す必要もなかったからそのまま持って帰ることにした。あとはバッグと靴が欲しかったけれど、気に入ったのが見つからなかった。バッグは今度の週末に探しに行こう。

 大きな荷物を抱えて待ち合わせのカフェに入ると、長谷川君はもう席に座っていた。わたしが近づく気配に気づいたのか、読んでいた文庫本を閉じて、こちらへと笑顔を向ける。
「ごめんねー、待たせちゃった?」
「いえ、そんなことないです。俺も今来たところで」
 今来たところ、というのはわかりやすい嘘だ。だって、彼の前に置かれたコーヒーのカップは空になっている。
 社会人としての生活が彼を少し大人にしたみたいだった。家に家庭教師に来ていた頃はいかにもさわやかな学生、という雰囲気だったけれど、今はそこに落ち着きが加わっている。
 染めていない髪はきちんと整えられていて、それもまた好印象だった。薄い色のシャツにジーンズ。その他に荷物は持っていない。財布とかはポケットにつっこむタイプなのかもしれない。

「ずいぶん大きな荷物ですね」
「これ? 結婚式に招待されたから、ドレスを買いに行ってたの。ちょっと荷物大きいよね。邪魔かな」
「それ、こっちに置きますか?」
「お願いしていい?」
 長谷川君は、ドレスの入った袋を自分の隣の席に置いてくれた。わたしは身体をずらして、彼の正面に座る。通りがかった店員にわたしもコーヒーを注文した。

「どうしたの? お茶でも、なんて珍しいけれど、何かあったの?」
「……そうですね」
 彼は目をそらした。何を考えているんだろう。好奇心をそそられて、わたしは身を乗り出す。
「――会えたらって思ったんです」
「……会えたら?」
 何で、という疑問がわたしの顔に浮かんだのだろう。それに気づいたようで、彼は苦笑した。

「正月に、メールをくれましたよね」
「……結もメールしたでしょう?」
「もらいましたけど」
 話題を変えようとするかのようにコーヒーカップを手に取る。空になっていることに初めて気がついたように一瞬動きをとめて、それをテーブルのソーサーに戻した。
「でも、もう少し話をしたいって――この間お会いした時は、僕は自分のことで精一杯で、次も会ってくださいって言う勇気がなかったんです」
 あれはもう一年以上前のことだ。違う、二年近く前のことになる。彼は本当に少し前のことみたいに言うけれど。
「次もって……」
 そういう風に言ってもらえるなんて思わなかった。そこにどんな感情が流れているのか、予想できないくらい子どもじゃない。
 今までの恋愛経験でそれなりにわたしも相手の機微を感じ取ることができるようになっていた。

「……ごめんなさい」
 わたしはテーブルに向かって頭を下げた。
「そういうこと、なら……」
「お付き合している人がいるんですか?」
 その時、いるって言えばよかったんだ。だけど、嘘を口にすることはできなかった。
「……それはいないけど……」
「今すぐ付き合って欲しいって言ってるわけじゃないんです。だって、俺は静さんから見たら頼りないでしょう?」
「頼りない、とは思わないけれど……」
「どうしても、ダメですか?」
 こんな風に食い下がる人だなんて思わなかった。適当な嘘でごまかすことのできない意志をその瞳に感じて、わたしも正面から向かい合おうと決める。

「あのね……忘れられない人がいるの。ずっと好きな人で、今も忘れられないの。その人が他の人と一緒にいるって考えるだけで、ここが痛くなる」
 ぎゅっと胸に当てる手。その手に長谷川君の視線が突き刺さる。
「どのくらい、その人のことを思っているんですか」
「わからない。もう十年くらい、かな」
 生まれた時からなんて言ったら、どこの誰だか気づかれてしまいそうだからあえて期間を短くした。
「でも……彼氏いましたよね?」
「それは否定しない」
 わたしのカップにはまだ中身が残っているから、わたしはそれを口に運ぶ。

「本当に好きになったと思っていた人もいた。この人なら好きになれるかもしれないって思った人もいた」
 けれど、それだけじゃ十分じゃなかった。目の前の誠実に向き合ってくれる男性に、これ以上何を言えばいいのだろう。
「わたしは、いい加減な気持ちで付き合ってきたつもりはなかったけど、ある人に言われたの。彼じゃない他の人を見ているような気がするって」
「本当にそうだったんですか」
「わからない。言ったでしょう? 好きになったと思っていたって。その人と彼氏を比べるようなこと、してたつもりない」
 長谷川君の目が、わたしの顔と、わたしの前に置かれているカップを往復した。それからゆっくりと口を開く。

「その人と――付き合るとか結婚できるとか、そう言った可能性はあるんですか?」
「……絶対に、ない。彼にとってわたしは都合のいい相手でしかなかったから。それでいいと思っていたこともある。都合のいい女が本命に昇格することってないでしょ?」
 久しぶりに会った相手、それもそれほど親しくない相手にいろいろとぶっちゃけすぎているような気がする。正直に言うと決めたから、しかたないけれど。長谷川君はそれに引くこともなく辛抱強くわたしの話を引き出そうとしてくれる。

「俺も、いきなりきちんと見てもらおうとは思っていません。メールのやりとりこそしてたけど、直接顔を合わせるのって久しぶりじゃないですか。時々、こうして会ってもらえれば十分なんです」
「……どうして?」
「忘れられなかったから」
 悪びれない顔で彼は笑った。
「時々、静さんのおうちで夕食をごちそうになったこと、あるじゃないですか。本当はあの頃からずっと気になってたんです。だけど、俺は学生だし静さんは社会人だし――」
 苦笑いをして、彼は続けた。

「年賀状に連絡先を書いて、何もなかったらそれで諦めようと思ってたんです。でも、静さんから連絡してくれたから」
 彼の目に浮かぶごくわずかな希望の色。同じ目をわたしは知っている。わたし自身が同じ目をずっとしていたから。
 本当はここできっぱりと断って立ち去るのが彼のためなのだと思う。でも、彼の目の色に引きずられてしまって、わたしは彼の願いを受け入れてしまった。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ