最後の女神




永遠に恋をしよう

 隣家を出た後、わたしは意外なくらいにすがすがしい気持ちだった。気がついた時から心の奥に隠してきた想いを全て吐き出して、後には何も残ってないんじゃないかって思ったけど、そうじゃなかった。
 パンドラの箱に、最後に希望が残ったみたいにわたしの心の中にも、何をされても冷たくならない場所が一つだけ残っている。
 それは、大地との思い出を保存している場所。
 好き、好き、大好き……愛してる。これから先、何度でも繰り返すだろう。彼に直接伝えることはなくても。

 大地からは、一度だけ電話があった。
「すみません、顔を見る勇気がなくて」
 きっとわたしと直哉の間にあったことは、大地が想像していたよりはるかに汚らわしいことなんだろう。
「……今まで、どうもありがとう」
 静かに言ったわたしの言葉に、返事はないまま電話が切られた。

◆ ◆ ◆

 あの日から二年が過ぎた。
 直哉は、というと――何回かお見合いをしているみたいだけれど、まだ新しい相手には出会えていないみたいだ。
 やっぱり一人には広すぎるって、駅近くのマンションに引っ越していって、隣の家は再び賃貸に出された。今は、夫婦二人の新婚さん。もうすぐ三人目がくわわるんだって、ゴミ出しをしていた旦那さんの方が嬉しそうに言ってた。
 奥さんの方は、美人っていうよりはかわいらしいって感じの人。わたしと同じ年だっていうから、両親の締め付けが最近厳しくなってきているのだけは少し困る。
 
 大地と最後の電話をした後、わたしは携帯電話を買い換えて、番号もメールアドレスも変更した。そうでもしなかったら、彼にメールや電話をしてしまいそうだったから。
 やっぱりわたしのずるくて弱いところは変わらないらしい。昔と違うのは、今はそこも含めて素直に認められるところなのかもしれない。
 直哉の隣に立つ女性たちにずっと嫉妬してた――大地と付き合い始めるまでは。
 けれど、直哉への気持ちが薄れたらそんなの何てことなくなった。いつか、彼が結婚するんだって誰か連れてきたら――その時は素直に祝福することができると思う。

 もう一つ変わったことと言えば。
 わたしは職場で出世した、というか部下がつくようになった。年を考えれば当たり前か。いつまでも一番下っ端でいるわけにはいかないんだから。
 先輩が次々に退職したこともあり、今では事務方のとりまとめ役みたいなことをしている。この仕事は大変だけれど、前と違って今ではやりがいみたいなものを見いだせているみたいだ。
 大地への想いは変わらないけれど、わたしの中で優しい思い出に昇華されている。まだ彼のことは忘れられないけれど、いつかまたわたしも誰かに出会うかもしれない。
 穏やかな日をそのまま過ごしていく。それも悪くないとそんな風に思っていた。

「お先に失礼します」
「気をつけて帰ってね」
 他の社員たちが次々に帰って行く。今日はわたしが事務所を閉めるのを引き受けたから、最後まで残っていなければならない。
 必要な書類を片づけて、生徒さんが残っていないか全ての教室を確認する。そして、誰もいないのを確認してから、施錠した。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます。また、明日」
 ビルの裏口には、警備会社から派遣されているガードマンが待機している。その人に挨拶をして、わたしはビルを出た。

 季節は秋になろうとしていて、朝家を出てきた格好では少し肌寒いくらいだ。鞄に入れていたストールを取り出して、肩に羽織る。
 急げば終バスに間に合いそうだ。わたしはバス停目指して急ぎ足に歩き始めた。
「……静」
「……大地?」
 忘れもしなかった声がかけられる。夢じゃないかと思った。信じられない思いに身体を震わせながら、ゆっくりと振り返った。
「久しぶり……というには時間がかかりすぎたかな」
 彼の笑顔は変わっていなかった。前よりまた少し表情が大人びたような気がする。付き合っていた頃は、まだぽやんとした感じが残っていたけれど、今では完全に落ち着いている。

「家まで送ってもいいかな……?」
「バスに乗るつもりだったんだけど……」
 わたしは腕時計に目をやった。こうして立ち話をしている間に、終バスは行ってしまった。歩くか……タクシー使うしかなさそうだ。もったいないから、歩こうかな。
「歩くなら歩いて送るし、静がつらいならタクシー使ってもいいし……少し話がしたいだけ」
 この余裕、何だろう。やっぱり二年は長い、と思う。離れていた時間に彼が何を経験してきたのか気になるけれど、わたしとは何の関係もない今の彼にそれをたずねるのもはばかられた。

「元気……だった?」
「……それなりに。静は?」
 話をしながら、わたしは彼の変わったところを一つ一つ見つけ出そうとする。前より髪が長くなった。ネクタイの趣味も変わったかな。前はもう少し地味なものを好んでいた気がする。
「こっちもそれなり、に」
「連絡しようと思ったんだけど……メールが届かなかった」
「携帯、変えたから」
 家までの道を並んで歩きながらの会話も、途切れ途切れになってしまう。
「……変えたって連絡くれなかったね」
「必要、ないと思って」
 直哉が全てを暴露した時の大地の顔、今でも思い出すことができる。

「そうだな……うん、俺が悪い」
 そうやって素直に認めるところは前と変わっていない。いつでも自分が悪いことはきちんと悪いと認められる人だった。
「あの人に会った時、静がずっと好きだった人ってこの人なんだろうってすぐにわかったんだ。隣の家、いとこ、俺よりずっと年上の男――生まれた時から静を知っている人。かなわないと思った」
「そんなことなかったのに」
「あの頃の俺は、それがわかっていなかったんだ。社会に出たばかりで自信がなくて。静にも頼られていないように感じていたからね」
「……本当にそう思ってた?」
 わたしは、とても頼りにしていたのに。伝えていたつもりなのに伝わっていなかった。

「わたしたち、言葉が足りていなかった?」
 けれど、それを今ここで語り合ってもしかたない。二人の間に流れた時間は戻らない。わたしは話の先を促す。
「それで、何をしに来たの?」
「……今、誰とも付き合っていないって聞いたから……ひょっとすると、もう一度チャンスをもらえるんじゃないかって――」
 自嘲するみたいに、大地は口元を歪ませた。
「チャンス?」
「やり直す……チャンスを。忘れられなかった、あの日からずっと」
 思っても見なかった発言に、わたしはどうしたらいいのかわからなくなって足をとめてしまった。

「でも、わたし……」
 わたしじゃ大地に釣り合わない。直哉と最初に身体を重ねたあの日から十年近く、ずっと嫉妬を抱えてた。彼の隣に堂々と立つことができる人たちに。自分もそうなりたかった――ずっと望んでいた。
「直哉と初めてセックスしたのは十八の時。それから十年近くずっと彼の隣に立つ人に嫉妬してたの……そんなわたしでもいいの?」
「それは俺も同じ。今だってその十年に嫉妬してる。離れていた間もずっと嫉妬してた。けど……」
 並んで歩いていた大地がわたしの手を取る。
「それでも静が恋しいって気持ちは変わらなかった。これからもずっと……静を好きでいると思う」

「……ありがとう」
 もういい大人なのに。それしか言うことができない。
「静……静さん、どうか、俺と付き合ってください」
「本当にいいの? わたしでいいの?」
「静はずっと気づいてなかったよね」
「何を?」
「時々、ここの前で静が出てくるのを待ってた。何度も声をかけようと思ったんだけど……勇気がなくて」
「……シフトはどうやって確認したの……?」
 気まずそうに大地は顔を背けた。
「結ちゃんとはメールのやりとりをしてたから」
「……なるほど、ね」
 近いうちに結にはお礼を言わないと。何かねだられそうな気もするけれど。彼女なら何もかも受け入れてくれるだろう、わたしよりずっと大人だから。

「今すぐ……とは言えないけれど……よろしく、お願いします」
 そう言うと、大地の眉が下がってとても情けなさそうな表情になった。
「やっぱり、だめ?」
「そうじゃなくて……離れていた間のこと、ゆっくり話そう?」
 そう言うと、わたしは背伸びして、彼の頬にキスをした。

 嫉妬し続けた十年はようやく終わった。これからは恋をしよう。ゆっくりと、わたしたちの恋を。
 永遠に。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ