最後の女神




決別の言葉

 大地の顔が歪む。わたしと直哉を見比べていた大地は、直哉に向かって一礼するとそのまま去ってしまった。わたしの方は見向きもせずに。
「……だ……」
 彼の名を呼びかけたわたしの言葉は、途中で途切れてしまう。わたしは、この場にいるべきじゃないんだ。だって、わたしは大地をきっと不幸にしてしまう。

 直哉の方を振り返ると、彼は微笑んで見せた。歪んだ微笑み。自暴自棄っていうのがぴったりだと思った。
「ほら、あいつはいなくなったぞ。これで俺とお前の間を邪魔するものは何もない」
 彼はそう言うけれど、わたしの耳にはそんな言葉なんて入ってこなかった。鞄を握りしめて、ずんずんと彼の方へと歩み寄る。
 こんなにも力強く人の顔をはたくのって、人生初経験だ。実に小気味のいい音がして、平手打ちしたわたしの右手の方がじんと痺れる。
「……最低!」
 ようやくそれだけを口にすると、わたしは身を翻した。

「静!」
「あんたなんか死ねばいい!」
 こんなにも強い言葉を、直哉にぶつけたのもまた初めてのこと。何をされても、どんな扱いをうけても、わたしは黙って彼のいいようにされていたから。
 そのまま振り向きもせずに、家の中に入る。彼もわたしを追ってこようとはしなかった。
 こういう時、お酒を飲んで全てを忘れてしまえたら楽なんだろう。だけど、わたしの中の少ない良識が、明日も仕事であることを思い出させる。
 今、飲酒なんてしたら絶対明日起きられない。部屋に戻って泣いたら、家族に気づかれかねない。
 結局、思う存分泣ける場所は浴室しかなくて。この夜、わたしはずいぶん長風呂をした。

◆ ◆ ◆

 眠れなくたって、迷惑をかけたくなければ仕事場には行かなければならないわけで。
 大地のマンションの方に向いてしまいそうになる目をそらしながら、出勤する。昨日、彼に誤解だってメールを何通も送ったけれど、返事はなかった。
 電話をかけたい誘惑にかられたけれど、着信拒否にされていたらどうしようって考えたらその勇気も出なくて。
 心が痛くて仕事にならないのではないかってちょっぴり心配もしたけれど、そんな心配は無用だった。毎日出勤後の決まったやりとり。必要な書類を紛失して困っている学生さんの相手。泣いている暇なんてなかった。
 
 一日の仕事を終えて、帰路につく。朝と同じように彼のマンションを目に入れないようにして歩いた。鞄に入れていた携帯電話の振動が伝わってくる。
 かけてきた相手を見て、げんなりした。わたしのことなんて放っておいてくれればいいのに。切れるまで放置しておこうかと思ったけれど、いつまでもいつまでもかけてくる。
 最終的に根負けして、通話ボタンを押した。
「――話がある」
「わたしはないけど?」
 直哉の声はきっぱりとしていたけれど、わたしの声も同じくらいきっぱりしていた。直哉となんて話すことはない。

 そうすると、直哉はとんでもないことを言い出した。
「俺と話す気がないというのなら、叔父さんと叔母さんに直接言うぞ。結婚させてくれ、静が高校生の頃からやりまくってたって言ったら――許さないわけにはいかないだろ」
 わたしは、本当にこの人を好きだったんだろうか。直哉が何を考えているのか、わからなくなってしまった。どうして今さらわたしに固執するんだろう。
 結婚する相手を見つけることができないから? それなら、もっと早く相手を見つけておくべきだったんだ。

「……あなたの評判も落ちるけど?」
「それでもいい。俺には静が必要なんだ」
「バカじゃない?」
 そう言った時には家の前に到着していた。けれど、家に入ることはできなかった。隣家の玄関から直哉が出てきて、わたしを手招きしている。そして、わたしの手を取った。
「入れ」
 無視して、自分の家に入るのが正しい判断なのだろう。わたしなら、そうする。けれど、やけにぎらぎらしている直哉の目を見ていたら無視して家に入ることはできなかった。

「……話すだけだ。他には何もしない」
 その直哉の言葉を信じるのはたぶん、愚か者のすることだ。だけど、わたしは彼の言葉に従った。
 つい先日、指輪を手渡されそうになったリビングに通される。わたしは先日と同じようにソファに腰かけようとはしなかった。立ったまま、直哉を睨み付ける。
「……用って?」
「俺と結婚するのをなぜ嫌がる?」
「なぜ?」
 その問いに驚いてしまった。
「まさか、わたしがあなたのこと愛してるとでも思ってたの?」
「俺のこと――好きだったろ?」
「ええ、好き『だった』」
 過去形のところをわざと強調してやる。あまりにも怒りが強くなると、逆に頭の方は冴え渡ってくるってことを初めて知った。

「ずっとあなたが好き『だった』」
 もう一度過去形を強調する。直哉の顔が歪んだ。
「ずっと好きだった。そのことまでは否定しない。でも、今は違う――あなたこそ、なぜわたしに執着するの? 伯父さんがどうにかなってしまう前に落ち着きたいから?」
「違う!」
 そう叫んだ直哉はうつむいた。
「そう考えられてもしかたない――俺は、静に悪いことばかりしてきた。でも違う」
「何が違うの?」
 わたし自身驚いていた。こんなにも静かで、それなのにこんなにも冷たくて鋭い声が出せるんだ。直哉は本当に胸を指されたみたいに苦しそうな表情になった。

「ずっと好きだったんだ――」
 そんな告白、今さら何の意味もない。
「だから? だから何?」
「――だから、静を自分のものにしたく、て……」
「そう言うけれど、あなたまっすぐにわたしと向かい合ったことあった? ううん違う。あなたを責めてるんじゃない。わたしもあなたに正面から向かい合ったことってなかったし」
 聞けば、二人の間の関係は壊れてしまう。だからこそ言えなかった。わたしを見て欲しい、好きになって欲しい、側に置いて欲しい――いとこ、じゃなく一人の女性として。
 たった一度だけ、わたしのことをどう思うかとたずねたら都合のいい相手だと言ったのは直哉だ。今さらそれを否定されても困ってしまう。
 けれど、彼と関係を持っていた間ずっとその願いを口に出さないようにし続けていた。言えば終わってしまう。その程度の関係だと知っていたから。

「それは謝る――ただ、年の差こととか親たちのこととか考えると――勇気が出なかった。それでも、静はずっと俺のことを見ていてくれると――そう思っていたんだ」
「だから他の女性と付き合っていたの? わたしをキープしながら?」
 問いただしたところで、疑問が一つ晴れるだけ。今さらあの頃好きだったなんて言われても、受けとめられない。直哉を軽蔑する気持ちが強くなるだけだ。
 そして、彼を追い続けてたあの頃の自分も。
「遅すぎるよ、直哉」
 わたしは初めて彼の名を呼び捨てにした。そのことに気がついた彼は目を見はる。

「わたしの気持ちは、ずっと前にあなたから離れてる。大地を追い払ったとしても、あなたのところには戻らない。家の両親に言いたければ言えばいい――そうしたらきっと、伯父さん、伯母さんと家の両親の関係もごちゃごちゃになるでしょうね。けど、家の両親は気づいてて何も言わないんだと思う」
 両親が気づいてるかもしれない、とは結が教えてくれたことだ。一息に言うと、わたしは直哉を正面から見た。

「……遅い、か……」
「大地と出会う前だったら、大喜びで……それこそしっぽを振ってあなたの提案に乗ったと思う。だって、好きだったから」
 わたしは笑って見せた。
「でも、わたしの心はとっくに大地のものなの。もう彼はわたしのことなんて受け入れてくれないだろうけど……それでも、好きなの。だからあなたとは結婚しない」
「もっと早く勇気を出していたら――」
「何か、変わっていたかもね」
 大地と再会する前だったら――きっと違う展開になってた。そのことは否定できない。
 直哉はリビングの床に座り込んでしまう。その拍子に彼の手から指輪が転がり落ちたけれど、わたしは何も気づかなかったふりをした。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ