暴かれた真実
あれから数日後。大地の部屋でのんびりしていても、直哉の声が耳に残っているみたいだった。
「お前しか見ていない」
その言葉を三年前にもらえていたら、きっと迷わずに飛び込んでいただろう。
けれど、年の差だのいとこであることだの――彼がそういうところを飛び越えようと思ってくれたきっかけは、わたしへの気持ちじゃなかった。
親を心配させたくないから。伯父さんが倒れなかったら、きっとあのままずるずるしていた――と思う。先にわたしが大地と結婚したらどうするつもりだったんだろう?
「どうかした? 元気ないね」
「ん、ちょっと……」
揺れるのは間違ってる。直哉への気持ちは、完全に消え失せているんだから。そうやって言い聞かせようとしても、最後の声が耳から消えてくれない。
なんてついてないんだろう。
わたしがため息をつくと、わたしの前に座った大地がこつん、とおでこをぶつけてくる。
「大丈夫だよ、僕がいるから。一人で抱え込まないで」
「……ありがと。ちょっと親戚の伯父さんが具合悪くて入院してるの。小さい頃は隣に住んでいて、ずいぶんお世話になったから心配で……それが出ちゃってたかな?」
「伯父さんって……隣の……ええと、桑原さん、だったっけ?」
「そうそう。知ってた?」
それには返事をしないで、彼の唇が額にあたって、頬に滑り降りて、反対側の頬に回って、最後に唇にたどり着く。軽く触れ合わせるだけのキスをしてから彼は言った。
「結ちゃんの家庭教師をしていた頃、話だけはよく聞いていたから」
「……あ、そうか。あの頃は隣にいたもんね」
「確か、いとこのお兄さんがいるとか言ってなかった?」
「いるけど、ずいぶん年上よ? わたしより十歳上だから……」
今度はこちらから、彼にキスをしかける。耳をひっぱるとくすぐったそうに彼が身を捩る。耳が弱いって言うのはこの部屋に泊るようになってからすぐに知ったんだ。
「十歳かぁ……それじゃ三十六、七? 結婚は?」
その単語がわたしの胸をえぐる。
「えっと……ま、まだ独身……そういう話がなかったわけじゃないみたいだけど……今は付き合ってる人もいないんじゃないかな」
やけに早口になってしまったのは、わたしに後ろめたい気持ちがあるからだ。
「へぇ、でもその年でも結婚してないって今は珍しくも何ともないもんね」
何でもない言葉なのに、何でだろう。大地は間違ったことなんて言ってない。確かに今結婚していないというのは珍しくもなんともなくて、独身の人はいっぱいいると思う。
ただの世間話、それだけのはずなのに――
ふいに、大地のキスがわずらわしくなってわたしは顔を背けた。
「……どうした?」
彼の顔に怪訝そうな表情が浮かぶ。なんとかして取り繕わないと――わたしの視線が忙しく室内を走り回る。
「ネギ」
「へ?」
「夕食、ネギ食べなかった?」
「うわー、ごめんっ」
大地は言葉の通り飛び上がった。
「ラーメンにネギ山盛りトッピングしたの忘れてた!」
「……ごめん、ちょっと……」
「だよね! そうだよね! 本当にごめん!」
大慌てで、彼は洗面所の方に走っていく。電動歯ブラシのモーター音が響いてきた。
その音がやむのを待っている間、わたしは必死に気持ちを立て直す。大丈夫、ぶれてない。大丈夫、だ。何度も自分に言い聞かせる。
「ごめん、不愉快な思いさせたよね?」
「……わたしこそ。最初は気にならなかったんだけど……」
駅前のラーメン屋で夕食をすませたのだそうだ。いつもは仕事の帰りにわたしが寄ったりしないから、油断してたなんて言うけれど、ごまかしていたわたしの方がもっと悪い。
「ごめんね。仕事の後なのに押しかけちゃって」
「……いいんだ。静がそういう風に俺に甘えてくれるのってめったにないから」
「そうだっけ?」
意外な言葉にわたしは目を見はってしまう。いつだって彼に甘えて頼っていたような記憶しかないのに。
「最初は、俺が年下だからって思ってたんだ。だけど静は考えていることを全部自分の中に押し込んでしまう。それが静にとっては自然なことなんだろうけど」
それでも、と彼は小さく笑った。
「男として頼りにならないって言われてたみたいでちょっと悔しかったかな」
「……ごめんなさい」
彼に何て言えばいいんだろう。何もかも打ち明けてしまいたくなるけれど、醜いわたしをみせるわけにはいかない。やっと素直に側にいてもいいって思える人に出会えたのに。
それがわたしのわがままな思いであることくらいわかってる。いくら言い訳したって、付き合ってる人がいるのに直哉と関係を持っていた過去は消すことなんてできない。
「明日はまた仕事だろ? あまり遅くならないうちに帰った方がいい」
「……そう、だね……」
平日から彼氏の家に泊まり込んでいる、というのは実家住まいの身としてはものすごく外聞が悪いんだと思う。鞄を取り上げて玄関に向かい、靴を履く。
「会ってくれてありがとう。また、週末に会おうね」
大地に会って、やっぱりわかった。わたしの気持ちは、もう直哉にはないんだって。つらい時も、悲しい時も、楽しい時も、顔を見たいって思うのは大地の方だから。
外に出ようとすると、財布だけポケットに突っ込んだ大地が追いかけてくる。
「どうしたの?」
「家まで送るよ」
「いいよ、バスまだあるし」
「バス停から家までの間が心配だ」
「そんなの……毎日通ってるから危険なんてないのに」
伸びてきた手が、きゅっとわたしの手を握りしめる。
「俺が静を家まで送りたいって思ったんだ。だって、何だか今日の静は一人にしちゃいけなそうな顔をしているから」
……この人は。何て鋭いんだろう。きゅっと握りしめられた手を動かして、指同士を絡める形につなぎ替える。
「バスだと遠回りになるけど、歩くなら十五分くらいで着くの……歩いてもいい?」
「いいよ。そのくらいたいした距離じゃない」
外の空気はひんやりとしていた。それが逆に心地よくて、わたしたちはおしゃべりをしながらゆっくりと歩いていた。
最近見たドラマのこと。互いの職場の噂話。相手の職場の人のことなんて何も知らないはずなのに、そんな話をしていても楽しいと思う。
「ここに来るのも、ずいぶん久しぶりだな」
「あの頃は、週に一度、だっけ?」
「試験前は二回」
家は真っ暗だった。結ももう寝ているのだろう。
「送ってくれてありがとう……お休みなさい」
大地が歩いて立ち去ろうとする。わたしは、彼が見えなくなるまで家の前で見送ろうと思っていた。ここまで来て危険なんてないと思っていたから。
「――おい! 人の婚約者とどういうつもりだ?」
隣の家の玄関が開いて、直哉が顔を出す。
「婚約……」
その言葉に大地が驚いたように目を見はった。言葉も出ない、と言った様子でその場に立ち尽くしている。
「どういうつもり? 婚約なんて、断ったでしょ!」
私も思わず大声を出した。直哉は乾いた笑い声を上げて、わたしを指さす。
「こいつと結婚するつもりだろうが、無理だぞ。こいつは俺がいないとダメなんだ。今までずっと、他に付き合っているやつがいたって、俺が呼び出せばいつでもほいほい出てくるんだからな。結婚したって、同じことが続くぞ」
あまりの発言にわたしはその場から動くことができなかった。
直哉の言っていることは間違いじゃない。間違いじゃない、けれど。 それをこういう形で暴露されるなんて、考えてもみなかったんだ。
「お前しか見ていない」
その言葉を三年前にもらえていたら、きっと迷わずに飛び込んでいただろう。
けれど、年の差だのいとこであることだの――彼がそういうところを飛び越えようと思ってくれたきっかけは、わたしへの気持ちじゃなかった。
親を心配させたくないから。伯父さんが倒れなかったら、きっとあのままずるずるしていた――と思う。先にわたしが大地と結婚したらどうするつもりだったんだろう?
「どうかした? 元気ないね」
「ん、ちょっと……」
揺れるのは間違ってる。直哉への気持ちは、完全に消え失せているんだから。そうやって言い聞かせようとしても、最後の声が耳から消えてくれない。
なんてついてないんだろう。
わたしがため息をつくと、わたしの前に座った大地がこつん、とおでこをぶつけてくる。
「大丈夫だよ、僕がいるから。一人で抱え込まないで」
「……ありがと。ちょっと親戚の伯父さんが具合悪くて入院してるの。小さい頃は隣に住んでいて、ずいぶんお世話になったから心配で……それが出ちゃってたかな?」
「伯父さんって……隣の……ええと、桑原さん、だったっけ?」
「そうそう。知ってた?」
それには返事をしないで、彼の唇が額にあたって、頬に滑り降りて、反対側の頬に回って、最後に唇にたどり着く。軽く触れ合わせるだけのキスをしてから彼は言った。
「結ちゃんの家庭教師をしていた頃、話だけはよく聞いていたから」
「……あ、そうか。あの頃は隣にいたもんね」
「確か、いとこのお兄さんがいるとか言ってなかった?」
「いるけど、ずいぶん年上よ? わたしより十歳上だから……」
今度はこちらから、彼にキスをしかける。耳をひっぱるとくすぐったそうに彼が身を捩る。耳が弱いって言うのはこの部屋に泊るようになってからすぐに知ったんだ。
「十歳かぁ……それじゃ三十六、七? 結婚は?」
その単語がわたしの胸をえぐる。
「えっと……ま、まだ独身……そういう話がなかったわけじゃないみたいだけど……今は付き合ってる人もいないんじゃないかな」
やけに早口になってしまったのは、わたしに後ろめたい気持ちがあるからだ。
「へぇ、でもその年でも結婚してないって今は珍しくも何ともないもんね」
何でもない言葉なのに、何でだろう。大地は間違ったことなんて言ってない。確かに今結婚していないというのは珍しくもなんともなくて、独身の人はいっぱいいると思う。
ただの世間話、それだけのはずなのに――
ふいに、大地のキスがわずらわしくなってわたしは顔を背けた。
「……どうした?」
彼の顔に怪訝そうな表情が浮かぶ。なんとかして取り繕わないと――わたしの視線が忙しく室内を走り回る。
「ネギ」
「へ?」
「夕食、ネギ食べなかった?」
「うわー、ごめんっ」
大地は言葉の通り飛び上がった。
「ラーメンにネギ山盛りトッピングしたの忘れてた!」
「……ごめん、ちょっと……」
「だよね! そうだよね! 本当にごめん!」
大慌てで、彼は洗面所の方に走っていく。電動歯ブラシのモーター音が響いてきた。
その音がやむのを待っている間、わたしは必死に気持ちを立て直す。大丈夫、ぶれてない。大丈夫、だ。何度も自分に言い聞かせる。
「ごめん、不愉快な思いさせたよね?」
「……わたしこそ。最初は気にならなかったんだけど……」
駅前のラーメン屋で夕食をすませたのだそうだ。いつもは仕事の帰りにわたしが寄ったりしないから、油断してたなんて言うけれど、ごまかしていたわたしの方がもっと悪い。
「ごめんね。仕事の後なのに押しかけちゃって」
「……いいんだ。静がそういう風に俺に甘えてくれるのってめったにないから」
「そうだっけ?」
意外な言葉にわたしは目を見はってしまう。いつだって彼に甘えて頼っていたような記憶しかないのに。
「最初は、俺が年下だからって思ってたんだ。だけど静は考えていることを全部自分の中に押し込んでしまう。それが静にとっては自然なことなんだろうけど」
それでも、と彼は小さく笑った。
「男として頼りにならないって言われてたみたいでちょっと悔しかったかな」
「……ごめんなさい」
彼に何て言えばいいんだろう。何もかも打ち明けてしまいたくなるけれど、醜いわたしをみせるわけにはいかない。やっと素直に側にいてもいいって思える人に出会えたのに。
それがわたしのわがままな思いであることくらいわかってる。いくら言い訳したって、付き合ってる人がいるのに直哉と関係を持っていた過去は消すことなんてできない。
「明日はまた仕事だろ? あまり遅くならないうちに帰った方がいい」
「……そう、だね……」
平日から彼氏の家に泊まり込んでいる、というのは実家住まいの身としてはものすごく外聞が悪いんだと思う。鞄を取り上げて玄関に向かい、靴を履く。
「会ってくれてありがとう。また、週末に会おうね」
大地に会って、やっぱりわかった。わたしの気持ちは、もう直哉にはないんだって。つらい時も、悲しい時も、楽しい時も、顔を見たいって思うのは大地の方だから。
外に出ようとすると、財布だけポケットに突っ込んだ大地が追いかけてくる。
「どうしたの?」
「家まで送るよ」
「いいよ、バスまだあるし」
「バス停から家までの間が心配だ」
「そんなの……毎日通ってるから危険なんてないのに」
伸びてきた手が、きゅっとわたしの手を握りしめる。
「俺が静を家まで送りたいって思ったんだ。だって、何だか今日の静は一人にしちゃいけなそうな顔をしているから」
……この人は。何て鋭いんだろう。きゅっと握りしめられた手を動かして、指同士を絡める形につなぎ替える。
「バスだと遠回りになるけど、歩くなら十五分くらいで着くの……歩いてもいい?」
「いいよ。そのくらいたいした距離じゃない」
外の空気はひんやりとしていた。それが逆に心地よくて、わたしたちはおしゃべりをしながらゆっくりと歩いていた。
最近見たドラマのこと。互いの職場の噂話。相手の職場の人のことなんて何も知らないはずなのに、そんな話をしていても楽しいと思う。
「ここに来るのも、ずいぶん久しぶりだな」
「あの頃は、週に一度、だっけ?」
「試験前は二回」
家は真っ暗だった。結ももう寝ているのだろう。
「送ってくれてありがとう……お休みなさい」
大地が歩いて立ち去ろうとする。わたしは、彼が見えなくなるまで家の前で見送ろうと思っていた。ここまで来て危険なんてないと思っていたから。
「――おい! 人の婚約者とどういうつもりだ?」
隣の家の玄関が開いて、直哉が顔を出す。
「婚約……」
その言葉に大地が驚いたように目を見はった。言葉も出ない、と言った様子でその場に立ち尽くしている。
「どういうつもり? 婚約なんて、断ったでしょ!」
私も思わず大声を出した。直哉は乾いた笑い声を上げて、わたしを指さす。
「こいつと結婚するつもりだろうが、無理だぞ。こいつは俺がいないとダメなんだ。今までずっと、他に付き合っているやつがいたって、俺が呼び出せばいつでもほいほい出てくるんだからな。結婚したって、同じことが続くぞ」
あまりの発言にわたしはその場から動くことができなかった。
直哉の言っていることは間違いじゃない。間違いじゃない、けれど。 それをこういう形で暴露されるなんて、考えてもみなかったんだ。