最後の女神




結婚できない

 伯父さんが倒れたと連絡を受けたのは、それからしばらくしてのことだった。
 もともと年齢の割には健康な方だったけれど、脚を悪くしてからは運動不足になりがちだったらしい。
 だから、というわけでもないのだろうけれど……年を取れば、一つや二つ悪いところが出てくる、というものだから。
「……せめて直哉が結婚してくれていればねぇ」
 そう言って伯母さんはため息をつく。
 幸い伯父さんは、一刻を争うような病状ではなかったけれど、退院してからは前より少し気が弱くなったみたいだった。

 好きにさせていた直哉に、身を固めて欲しいってよくいうようになった。
「せめて結婚していればねぇ、あの人も安心するんだろうけれど」
 我が家に来た伯母さんは、母がいれた紅茶を手にため息をついた。伯父さんが倒れた後忙しかったから、少しやつれたみたい。
 我が家のリビングにいるのは、わたしと母と伯母さんだった。結はちょっと前までいたのだけれど、サークルの人たちに会う、と言って出かけていった後。

「あっちに彼女はいたみたいだけど、連れて戻ってこなかったんでしょ? それからどうなの?」
 母が身を乗り出す。
「結婚考えないわけじゃなかったけど、うまくいかなかったって言ってなかったっけ?」
「あら、そうなの?」
 今度は伯母さんがわたしの方に身を乗り出した。
「うーん、ごめん、わからない。ひょっとすると、お母さんとそうなるかもねって話をしただけかも。どっちだったかなぁ」
 自分でも驚いてしまうくらい記憶が曖昧だ。
 やっぱりわたしは変わったんだと思う。直哉の言ったこと、言った時、言った場所、前なら一つ残らず覚えていたと思う。
 あまりにも長過ぎたから、わたしの中から直哉を追い出すのにずいぶん時間がかかってしまったけれど、ようやくふっきれたような気がする。

「……九州からこちらに連れてくるのじゃ、相手が受け入れてくれなかったのかもね」
 と母が言うと、伯母さんは深々とため息をついた。
「静ちゃん、誰か友達とかいない? ああ、いっそ静ちゃんそのまま来てくれても――」
「……彼氏がいるから、わたしにはちょっと無理。友達にいい人いないか聞いてみるね」
 一応、そう言ってごまかした。直哉の趣味ってどんな人なんだろう。昔見たことのある彼の恋人たちを思い浮かべてみた。
 基本的には綺麗な髪を長くのばした細身で背の高い女性が好きだった気がする。何人か見かけた彼の彼女はみんなそうだった。
 でも、とすぐに首を振って考え直す。わたしの知っている人と直哉が結婚するのって複雑だ。伯母さんには悪いけれど、やっぱり紹介はやめておこう。

◆ ◆ ◆

 早番の日はそうでもないけれど、遅番の日にあたると帰宅は深夜になってしまう。
 本当は家まで帰ってくるのが面倒になってしまって、職場の近くにある大地の家に行ってしまいたいと思うこともあるけれど、いい加減な付き合いはできないから、毎日家に帰った。
 この時間だと皆寝ている可能性が高いから、わたしは自分で鍵を開けて家に入ることにしている。家の前に立って見上げると、結の部屋にはまだ電気がついていて、リビングは真っ暗だった。
 両親の寝室も電気が消えている。ということは、もう寝ているということだ。遅くなる日は職場の近くで食事をすませちゃうことにしているから、あとはお風呂に入って寝るだけ。さっさとすませて寝てしまおう。
 明日は休みだけど、大地は仕事。たまに平日休みの仕事が恨めしくなる。自分で選んだ仕事だから、あまり言えないけれど。

 玄関の前で鞄をかき回し、鍵を探していると背後から肩を掴まれた。悲鳴を上げかけ、それが直哉であることに気づく。
「やだ、もう……声くらいかけてよ」
「話がある」
 街頭のわずかな明かりでも、直哉が真剣な顔をしているのがわかる。ここまで真剣な表情を見せるのは初めてだったから、わたしはとまどった。
「……何?」
 疑問に思っているのが声音にあらわれたと思う――直哉の方も眉間に皺を寄せたから。
「ここで話せるような話じゃない」
「……どこに行くの?」
「あっち」
 彼が指さしたのは、隣の家だった。わたしは首を横に振る。

「それはできない」
 彼の家にはいろいろな思い出があり過ぎる。いいことも悪いことも。
「ここで話せるような話じゃないって言っただろ?」
「ここじゃないなら、話は聞かない」
 鞄の中を探していた手が、ようやく鍵を探り当てる。
「静」
 彼はわたしの腕を取った。
「……やめてくれない?」
 大声を出すのもはばかられて、わたしは小声で言う。家族にこんなところを見られたくなかった。しかたなく彼に続いて隣家に上がる。
 
 通されたリビングはだいぶ様変わりしていた。大きなテレビに黒いソファ。ガラステーブルの周辺には、コンビニの袋が散らばっている。空になった弁当の容器が大半を占めているみたいだ。
 家の母に何か食べさせてやってくれって頼んだ伯母さんは、間違ってなかったのかもしれない。そのおかげで、こんなに甘やかされた人間が出来上がったわけだけど――甘やかされているのはわたしも同じだから、何も言えないけど。

「話って何? わたし、帰ってさっさと寝たいんだけど」
 ソファに腰かけようともせず、わたしは立ったままたずねた。
「何か、飲むか?」
「……いらない」
 直哉が飲み物を勧めてくれたけれど、わたしはそれを受け取る気なんてなかった。本当はこの場にいるのも嫌だ。さっさと話を終えて帰りたいのに直哉はそれを許してくれない。
 冷蔵庫から自分の分だけビールを持ってきた直哉はプルタブを開けた。一息に中身を半分空にして、それをかたんとテーブルの上に置く。

 それきり何も言わないから、わたしも黙って彼を見つめ返すだけだった。
「……結婚してくれ」
 ようやく彼は口を開く。出てきた言葉を理解することができなくて、わたしは目を瞬かせた。
「け……結婚……?」
 彼の口から出てくるにしてはあまりにも似つかわしくない言葉だった。
「いや……そんなの、無理……」
 わたしの断りの文句は彼の耳には届いていないようだった。

「もう決めた。お前は俺と結婚するしかないんだ」
「勝手なことを言わないで! わたしは、あなたとなんて結婚しない。あなたみたいな……あなたみたいな」
 勝手な人。浮気者。そう彼を罵るのは簡単なことじゃなかった。だって、わたしも彼と同じことをしていた。
付き合っている人がいても、彼に呼び出されたら大喜びで彼のところに行った。彼に付き合っている人がいてもそれはかわらなかった。
 どちらも同じ。似た者同士。改めてそのことに思い当たった瞬間、どうしようもない嫌悪感が背中を走り抜ける。
 わたしは信じられないものを見る目で直哉を見た。これは、わたしの知ってる直哉じゃない。直哉はわたしに結婚して欲しいなんて言わない。だって、彼は――

「信じられないか? そうだろうな。でも、それはお前だって同じだろ? 他に付き合ってる奴がいたって、俺のところに来たんだから」
 今思い当たったばかりの事実が直哉の口から繰り返される。わたしは口を手で覆って後退した。この場の空気に耐えられない。逃げ出したい――やっぱりついてくるんじゃなかった!

「もう一度言う。結婚して欲しい」
 そう言うと、直哉はわたしの前に膝をついた。そして取りだした白い箱を開く。その中にはジュエリーボックスがおさめられていて、蓋を開くと婚約指輪がおさめられていた。
「……指輪は……無理、いらない。あなたとは結婚しない!」
 そう叫ぶとわたしは身を翻す。
「もう決まってるんだからな!」
 後ろから直哉の声が追いかけてくる。どこまでも勝手な人。決まってなんかないのに。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ