最後の女神




妹の告白

 結が真面目な顔をして、わたしの部屋に来たのは、彼女が就職活動を無事に終えようとしていた頃だった。大地とわたしの付き合いは、順調と言ってよかった。
 まだ親に正式に紹介したわけじゃないけど、付き合っている人がいること、真面目に将来を考えていることなんかも話していた。
 相手が大地だって言えなかったのは……たぶん、照れくさかったんだと思う。彼が結の家庭教師に来ていた頃、彼はまだ学生でわたしは社会人だった。だから、というわけでもないけれど何となく言い出しにくくて現在までそのままだ。

 部屋の扉を開いた結は、そこから動こうとしないままわたしを見ている。それから、渋々、といった感じで口を開いた。
「お姉ちゃん、長谷川先生と付き合ってるの?」
「……そう、だけど……それがどうかした?」
 結がそれだけ真剣な顔をしているのは初めてだったから、わたしも真面目に返す。長谷川先生って呼び方を大地がされるのは久しぶりだな、なんて何の脈絡もないことが頭の中を横切っていった。
「先生は、直哉兄さんのこと知ってるの?」
 今度は何も言えなかった。

 直哉とのことを結が知っている? 誰にも知られていないつもりでいたのに。
「いつから……」
 それだけを口にするのがやっとだった。直哉とのことを、結はいつから知っていたのだろう――
「……きっかけは、何年か前のお正月。わたしを残してお姉ちゃん出かけたことがあったでしょ。お土産って買ってきてくれたゲーム。駅ビルに入ってた店の包装紙だった。その次の日だったかな、直哉兄さんがくれたお菓子も同じ駅ビルで。最初は偶然かなって思ってたんだけど……正月から買い物したいなら、あそこが一番手っ取り早いしね」
 そこで口ごもってしまった結は、言葉を探すかのように天井を見上げて黙り込んでしまう。それからもう一度を視線をわたしに戻した。

「なんか直哉兄さんがお姉ちゃんに接する時とわたしに接する時の態度が違うんじゃないかって……その頃から感じるようになって」
「それは、結が子どもだったからでしょう?」
 わたしと結を同じに扱うことなんてできない。だって、わたしは利用していただけの相手で、結は大切ないとこなんだから。けれど、結は話し続ける。
「それにね、茗田駅近くのホテル街に二人が入ってくのも見ちゃったんだ。どのくらい前か忘れたけど」
「……嘘」
「わたしは、友達とカラオケに行くところだったんだけどね」
 結は肩をすくめて見せた。

「本当はその時追求すればよかったんだろうけど、わたしもびっくりしちゃって……その時、二人とも他の人と付き合っていたからね。だけど、お姉ちゃんが誰を好きか、なんて見ていればわかったよ。切ないくらいに悲しい目をしてあの人を追いかけてたもん。きっと、お父さんもお母さんも気づいてると思う」
 頭を殴られたような気がした。隠し通していたつもりでいたのに家族全員に知られていたなんて。気づいてないのはわたしだけなんて――
「誰と付き合っても長続きしないし、本当に好きなのは直哉兄さんなんだって思ってた。二人の関係は変わったように見えないのに、でも、いつの間にかお姉ちゃんは長谷川先生と付き合ってる。どういうことなの?」
 わたしと直哉の関係を、妹にどう説明したらいいんだろう。この期に及んでも醜く見られたくないっていう余計な計算がわたしを支配する。

「あのね……直哉兄さんのことが好きだったのは本当。それは否定しない。でも……今は違うの」
 信じない、という強い光を目に宿して結はわたしを見ている。
「……一方通行、だったんだよね。直哉兄さんはわたしのことなんて好きじゃなかった。だって、ずっと彼女いたもん。それでも忘れることができなくて、身体だけでもいいからって、そう思ってた時期もあった。その時付き合ってた人を裏切ったことがあるのも否定しない……だから、もう一生恋もしない、結婚もしない。そう決めていた時に大地と付き合うようになったの」
「恋もしない、結婚もしないって決めてたのに?」
 結は厳しい顔でわたしを睨み付けている。今、彼女の目にはわたしはとても醜く映っているんだろう。どんなに言葉を取り繕おうとしても。

「うん……そう決めつけていたわたしの気持ちが変わるまで、大地はゆっくりゆっくり待ってくれた。最初の頃なんて、本当にメールのやりとりだけで」
 大地という名前がしめすように、彼はわたしの心を優しく包み込んで育ててくれた――大地以外の人なんて考えられない。
「彼が時間をくれたから、ゆっくり向き合えた。そうしたら、気がついたら好きになってたの」
 この気持ちは誰にも否定させない。わたしも同じように強い意志をもって結を見返す。今までぐるぐる回ってきたけれど、大地への思いは本物だ。かつて直哉を好きになった時みたいに、全力で大地に恋してる。
「お姉ちゃんがそう言うなら信じる」
 やがて、長いこと新目していた結はそう言った。

「この間ね、偶然お姉ちゃんと長谷川先生を見かけたの。すごくいい雰囲気だったから……いい加減な気持ちだったらやだなって」
「いい加減じゃないよ」
 そう返したけれど、顔が赤くなっているのがわかる。見かけたってどこでだろう。基本的には、彼とはいつもべたべたとしながら歩いているから、現場を妹に見られるというのはかなり恥ずかしい。
「ねえ、幸せにならないと許さないからね?」
 部屋を出て行きながら、結が言った。

「わたし、長谷川先生のことちょっぴり好きだったんだから。先生を不幸にしたら、絶対に許さないからね!」
 わたしはなんて鈍いんだろう。一人取り残されて嘆息してしまう。冷静に考えればわかりそうなものだ。
 定期的に顔を合わせる、自分より年上の男性。大人から見れば、あの頃の彼はまだまだ子どもと言ってよかっただろうけれど、高校生だった結には十分以上に大人に見えていたはず。
 結の気持ちがどこまで真剣だったんだろうなんて、今になってわかるはずもないけれど。

◆ ◆ ◆

 家が隣でも、直哉と顔を合わせる機会はそれほど多くなかった。だいたい、九時から十八時プラス残業という時間帯でお勤めしている彼と、シフト制で働いているわたしとで時間が合うはずもない。
 だから、顔を合わせるのは親に頼まれてゴミ出しに行った時にたまたま彼と鉢合わせるか、家に夕食を食べるに来ている時かくらいだった。
「その後、彼とはどうだ?」
「おかげさまでうまく行ってる。もう少ししたら結婚したいなって話はしてるんだけど……」
 浮かんでしまうのは照れ笑い。大地との関係は、とてもよく馴染んでいた。

 人はもともとは一つのもので、生まれる時に二つに分かれちゃう。だから、もう片方を探して、一緒になるんだ――というのはどこで聞いた話だったんだろう。
 ずいぶん長い間離れていた半身をようやく見つけ出した気がする。だから、わたしは大地を大切にしようと決めていた。
「……そっか」
 直哉が少しうなだれたような気がした。
「やだ、直哉兄さん何をうなだれてるの? 年下のいとこに先越されるのがショック?」
 彼との間にあったことは、誰にも見せられないから。だから、わたしは彼との間に必要以上の線を引こうとする。年下のいとこ、それ以上でも、以下でもないという線を。

「ばーか、そんなんじゃないよ。静をもらうんじゃ相手も大変だな」
「そんなことないもん」
 わたしはふくれて見せる。
 心の傷は、大地が丁寧に包帯を巻いてくれたから。だから、もう心に穴があくなんてことないんだ。そう信じていればいい。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ