最後の女神




一夜明けて

 翌朝、顔を見合わせるのは少し恥ずかしかった。あれから何度か目を覚ます度に求め合って、結局一晩中ベッドに押さえつけられていたような気がする。わたしが目を覚ました時にはベッドの隣は空で、一瞬見捨てられたような気になった。けれど、それは間違いだったことがすぐにわかった。
「おはようございます。静さん」
 もぞもぞと動いていると、コーヒーのいい香りとともに彼がベッドの方へと近寄ってくる。
「……おはよう」
 朝一番の声は少しかすれていて、昨日どれだけ声を上げたのか、とっさに連想してしまって恥ずかしかった。
 
「朝御飯、できました。コーヒーでいいですか」
「……ありがとう。すぐに行く」
 昨日見た時には冷蔵庫の中はほとんど空だったのに、朝御飯なんて作れるのかなと思っていたら、用意されていたのはスクランブルエッグだった。借りた彼の服を着てテーブルの方に向かうと、彼がトースターからパンを取り出したところだった。
「すみません、バターしかなくて」
「ううん、おいしそう。卵載せて食べようかな」
「それ、いい考えですね」
 小さなテーブルに向かい合わせで座って、彼が用意してくれた簡単な朝食を食べる。卵は冷めかけていたけれど、彼がわたしのために用意してくれたんだと思えばそんなこと少しも気にならなかった。

 食事の後は、コーヒーをお代わりしてのんびりとおしゃべりを楽しむ。使った食器はとりあえず流しに運んでしばらく放置。
「ねえ、静って呼んでくれるんじゃなかったの?」
「えっと、それは……」
 みるみる真っ赤になった大地のことがすごく可愛いと思った。
「おはよう、大地」
 わざと彼の名前を呼び捨てにして、わたしの方からテーブルを越える。軽く音を立ててキスすると、腰に両手がかかって引き寄せられた。片方の手が腰に回って、もう片方の手が背中を押さえつける。

 いきなり舌が押し入ってきた。わざと音を立てて、口の中をかき回される。
 わたしはテーブルに両手をついて身体を支えようとした。けれど、そんな努力も無駄なことで、身体から力が抜けるまで、熱烈にキスされて、彼にはかなわないと思い知らされてしまう。
「今日は何をしますか……する?」
 照れた顔をしていちいち言い直すのも可愛い。
「……夕方までここにいたいな」
 朝食のテーブルを挟んで上目遣いに言うと、大地はまた顔を赤くした。

「夕方までここにいるなら、起きてはいられないです……いられないよ?」
 ああもう、なんでこんなに可愛いんだろう。幸せに身体が支配される。身体を支配しているのは欲望なのかもしれないけれど、今はそれが密接に結びついている。
「起きていられないなら、どうなるの?」
 わかっていて聞き返すわたしも大概だと思う。けれど、それ以上の幸福感に身体を包まれていた。
 その言葉が終わるか終わらないかのうちにベッドに引き戻されてしまった。昨日何度も身体を重ねたのに、それさえ忘れてしまったかのように激しい行為が始める。
 夕方までじゃれあったりうとうとしたり。こんな風に誰かと過ごすのってずいぶん久しぶりだったから、余計に幸せに感じた。

 わたしが家に帰ったのは、もうすぐ夕食という時間帯だった。さすがに親もどこに泊ってきたのかなんて野暮なことは言わない。一応、「友達の家に泊りに行く」とは言っておいたけれど、その友達が同性じゃないことくらいお見通しなはずだ。
 夕食の席に並んだのは、鶏の照り焼き、ポテトサラダ、それにスモークサーモンと何種類かの野菜をマリネにした物。これにお味噌汁がつく。
 日曜日の夕食、自分の家でだらだらしているくらいならこっちに来いと父に呼ばれた直哉は、わたしの斜め前の席に座っていた。
「静、朝帰りだって?」
「さっき帰ってきたとこ。遊び過ぎちゃった。直哉兄さんは今日は何してたの?」
 何でもないことのように外泊を認めて、わたしから直哉に問い返す。
「俺?」
 直哉はため息をついて見せる。

「朝から晩まで掃除してて終わった。家賃いらないっていうから、実家に戻ったけど掃除で休日つぶれるなら出た方がいい気がする」
「てっきり奥さん連れて戻ってくるんだと思っていたのに」
 ちょっと前までなら、母のこんな言葉を余計なことだって、表に出さないようにしながらはらはらしていたはずなのに。今は心穏やかに聞き流すことができる。
「彼女とかいないの?」
 結がサラダボウルを手元に引き寄せた。残っていたポテトサラダを全部自分の取り皿に載せてしまう。
「空になったなら、キッチンに置いてきて」
「はぁい」
 母に言われた結は、素直にサラダボウルをキッチンのカウンターのところに置いて戻ってきた。

「あっちでも付き合ってる人はいたんだけど――なんて言うか、そういう気にならなかったんだよな、お互いに」
 たぶん、直哉の言っていることは嘘が混ざっているだろう。わたしはそう推測する。
 お互いに、そういう気にならなかったというところ。彼となら――って、そう思う女性は多かったはず。きっと向こうで付き合っていた人も同じように思っていただろう。少し前までのわたしが望んでいたように。
「残念ねぇ……お見合いでもする?」
「遠慮しておく。お見合いするくらいなら、一生独身でもいいかも」
 そう言いながらも、直哉はちらちらと視線をこちらに向ける。親の前でやめて欲しい。そうすれば、未だにわたしがぐらぐらするなんて思っているんだろうか。わたしだって、いつまでも子どもじゃないのに。

 夕食を終えた後、直哉は皿洗いをすると言ってキッチンに立った。こういう風にまめなんだから、その労力を女性に向けていたなら――きっと、今頃他の人が彼の隣に立っていたんだろうな。いとこなんかじゃなくて。
「彼氏ってどんなやつ?」
「ん? ……年下」
 なんだか流れでわたしもキッチンに立つことになってしまって、二人でお皿を洗うことになった。
「へぇ、意外だな。静なら年上と付き合うと思ってた」
 そう思うのは、わたしがずっとあなたのことを好きだったから? そんな風に考えるなんて、わたしも性格が悪くなったものだ。
「そうでもないよ? 今までの彼氏全員が全員年上ってわけじゃなかったし……年下っていうのはさすがに初めてだけど」
「……どこがいいんだ?」
 真面目な声音で問われて、わたしは首を傾げた。水を切った食器を拭くための布巾を探して後ろを向く。

「きゃあっ」
 ふいに首の後ろに触れられて、思わず大声を上げていた。
「……あ、悪い」
 リビングにいた全員がこちらに目を向けていた。
「俺がぶつかったから」
 その一言で皆納得したみたいで、また思い思いに自分たちの会話へと戻っていく。驚かせるのはやめてほしい。抗議しようと直哉の方へと向き直る。

「首」
 再び皿洗いに戻った直哉はわたしの耳元に口を寄せた。
「首の後ろにキスマークがついてるぞ」
「うそぉ」
 昨日はあまりにも幸せ過ぎて、そんなところに跡をつけられていることにさえ気づいていなかった。
「……髪、おろしとけよ」
「ありがとう」
 そりゃまあ、家の両親だって娘が外泊してきたわけだから予想はしているだろうけれど、目の前に証拠をつきつけるのはまた別問題だ。わたしは直哉の忠告を感謝して受け入れた。

「直哉兄さん」
「ん?」
「教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
 洗い終わった食器類を、二人でぴかぴかになるまで磨く。それからそれを食器棚にしまって、ようやく後片付けから解放された。
「叔父さん、叔母さん、ご馳走様でした」
 きちんと挨拶して帰っていく直哉をみんなで見送りながら、わたしは愚かにも全てが解決したのだと思い込んでいた。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ