最後の女神




暑い夏の日には

 その夜、ローザニア王宮では盛大な舞踏会が開かれていた。最初のダンスを王妃リティシアと踊ったレーナルトは、それからあとは彼女と離れてしまっていた。
 というのもその夜招かれていたのは王妃の兄であるアルベルトと従兄弟であるテオドールのために開かれた舞踏会だからで、彼女はまだ独身である二人にローザニア国内の貴族の娘たちを引き合わせるのに忙しかった。
 レーナルトはといえば、ローザニア貴族たちの間を行ったりきたりして何とか彼と話をする機会を得ようとする貴族たちの相手をするのに忙しかった。
 それも一段落して、ようやくリティシアを探そうとした時には、彼女は完全に姿を消していた。
「王妃を見なかったか?」
 側にいた侍従にたずねる。
「妃殿下でしたら先ほどテラスに出て行かれましたが」
 レーナルトがテラスに出ると、そこにはリティシアと彼女の従兄弟であるテオドールがいた。リティシアがテオドールに何かささやくと、彼はレーナルトに一礼して室内に戻っていく。
「――何を話していた?」
 リティシアは眉をきゅっと寄せて困ったような顔になった。
「……レーナルト様、あの……」
 リティシアはそっと彼に身を寄せた。
「……幸せか、と聞かれました」
「あなたの返事は?」
 リティシアの頬に血の色が上る。それからリティシアは小さな声で言った。
「……幸せです、と……」
「それならよかった」
 レーナルトはリティシアの額に唇を落とす。それから、もう戻ろう、と彼女を舞踏会の会場へと誘った。

 寝る支度を終えて寝室に入ってみれば、リティシアは寝室にいなかった。窓が大きく開け放たれてカーテンが風に揺れている。
「リティシア」
 名前を呼んで彼がテラスに出ると、リティシアはそこにいた。白い絹とレースで作られた夜着の一枚で、そのほかには何も着ていない。
 そんな無防備な格好のままリティシアがテラスに出るのは珍しくて、レーナルトは一瞬、その姿に見とれた。
「リティシア――どうした?」
 もう一度呼ぶと、ようやく彼女は振り返った。解いたままの明るい茶色の髪が彼女の動きにつられて揺れる。
「こんなところにいては風邪をひく。もう部屋に入りなさい」
「……はい」
 レーナルトはリティシアの肩を抱いて寝室へと連れ戻す。窓を閉めようとすると、リティシアに止められた。
「なぜ止める? 明け方には冷え込むだろう」
「いえ、一カ所だけ開けておいてはいただけませんか?」
 リティシアは彼が閉じたばかりの窓をもう一度開く。
「……その」
 リティシアは言いにくそうにうつむいた。
「言いたいことがあるならいいなさい」
「その……レーナルト様、……暑いのです」
「暑い?」
 レーナルトはリティシアの顎に手をかけて顔を持ち上げた。リティシアは恥ずかしそうにまつげを震わせて、そっと彼の手から逃れようとする。
「今日は比較的過ごしやすいと思うが……」
「いえ、レーナルト様」
 レーナルトは顔を伏せてしまったリティシアの顔をもう一度のぞき込んだ。
「……こちらの国は、その……とても暑くて」
「いくら何でもそれほどではないだろう」
 たしかに多少暑いとは思うが、窓を全開にして寝なければならないほどではないと思う。それよりは細身であまり丈夫ではなさそうに見えるリティシアが風邪をひいてしまう方が心配だ。
 申し訳なさそうに、リティシアは口を開く。
「……兄の話では、ローザニアからの使者は、ファルティナの王都では他の人たちより一枚多く羽織らなければ寒く感じるのだそうです。わたくしにとっては、ローウィーナはとても暑くて……申し訳ありません」
 リティシアは瞳を落としてしまった。
「それは……すまなかった」
 レーナルトはリティシアを引き寄せる。
「たしかに北国から来たあなたには、ローザニアは暑いだろうとは思っていたが――」 いつでも彼女はひっそりとしていて、暑さなど感じさせたことはない。どれほど暑い日であろうと、汗一つかかずに穏やかな笑みを浮かべているのだから。
 言われてみれば、いつもは彼の腕の中で眠るのに最近は彼の腕から抜け出てベッドの端に寝ていることが多い。暑くて離れているだとわかれば、それも納得がいく。
「申し訳ありません……耐え難くて」
「だから、テラスに?」
 レーナルトに引き寄せられて、リティシアはこくりとうなずく。
「それにしても、そのままの格好というのは無防備すぎるな」
「申し訳……」
 さらに詫びの言葉を続けようとする唇を、彼は自分の唇で塞いでしまう。彼の腕の中で小さくわなないたリティシアは、そのまま彼の胸に自分の身体を預けた。
「……リティシア」
 肩からこぼれ落ちた髪をそっと彼はかき上げてやる。
「……一つ聞いてもいいだろうか」
「なんでしょう?」
「このところ、あまりよく眠れていないのではないか?」
 彼女の身体は、以前より少しほっそりしたような気がする。もともとがとても華奢だから、このままでは倒れてしまうのではないかと彼は不安になった。実際嫁いできたばかりの夏には倒れて三日ほど公務から離れている。
「……大丈夫です。夜はよく眠れていますもの」
 リティシアはそう言ったけれど、彼の心配は大きくなる一方だった。

 リティシアの兄と従兄弟が帰国した翌日、リティシアはレーナルトに呼ばれた。涼しげな淡い水色のドレスをまとった彼女が彼の執務室に赴くと、彼はリティシアを連れて執務室を出た。
「レーナルト様……どちらに?」
「いいからついてきなさい」
 レーナルトはリティシアを連れて、王宮の廊下をどんどん進む。リティシアは彼に導かれるままに後をついて行った。
 嫁いできた頃からリティシアには優しかった彼だから、広い王宮の中、あまり行ったことのない場所に連れて行かれることにも不安はなかったけれど。
 レーナルトはどんどん進んでいって、リティシアが入ったことのない区画に足を踏み入れた。
「あの、レーナルト様。この場所は?」
 レーナルトがリティシアを連れて行ったのは、城の中でも一番奥まった場所だった。「しばらくの間、ここは使っていないのだけれどね――もともとは子どもたちが暮らすための場所だから」
 リティシアはレーナルトの顔を見上げた。嫁いできてから一年以上たった――その間半年近く別居いていた時期があるとしても――現在でも二人の間に子はいない。
 レーナルトには異母弟が一人いるだけだし、この区画がしばらく使われていなかったというのも納得がいく。
「リティシア」
 レーナルトは大きな扉を開いた。
「まあ、池に面しているのですね」
 部屋に入ったリティシアは目を見張った。大きく開いた扉と向かい合うように窓がある。
「しばらくの間、ここを寝室に使うというのはどうだろうか」
「ここを、ですか?」
 リティシアは驚いて室内を見回した。カーテンこそかけられてはいるが、がらんとしていて寂しい雰囲気がただよっている。
「ここは、今の寝室よりも涼しく過ごせるだろうからね。夏の間だけでもここに使うというのはどうだろうか」
「ここを、ですか……」
 その部屋に家具は何も置かれていなかった。がらんとしている室内に、リティシアはベッドやテーブルやソファの家具を置いた様子を想像してみる。想像の中で、床には敷物も広げてみた。
「気に入らないかな?」
「……いえ」
 リティシアはきゅっとレーナルトの身体に腕を回す。
「ありがとうございます。レーナルト様」
 この部屋は池に面しているから、涼しく過ごすことができるだろう。このところは暑くて彼の腕から抜け出してしまっていたけれど、彼にぴったりくっついて寝ることができるのなら嬉しい。
「家具はあなたが好きなものを置くといい。タミナと一緒に選んで、数日のうちに部屋を整えてもらえるかな?」
「……はい。あの……レーナルト様」
 リティシアは彼の身体に回した腕に手をかけた。それからゆっくりと、リティシアの踵が上がる。
「ありがとうございます。素敵なお部屋になるようにしますね」
 そう言うと、リティシアはそっと彼の頬に口づけた。


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