最後の女神




はじめての

 その日、国王夫妻は執務室の隣にある小さな部屋で休憩をとっていた。
 二人の予定が合えば、午後のお茶の時間をここで過ごすのは結婚した頃からの習慣だ。
 リティシアがそっと目をこする。
「どうした?」
 レーナルトに問われ、リティシアは首をかしげた。
「どうしたというのでしょう……? 最近眠気がおさまらないのです」
「わたしのせいで寝不足というわけではないな」
 レーナルトは、リティシアの鼻先をつついた。
「……知りませんっ」
 ぱっとリティシアの頬が赤くなる。

 このところ、リティシアが先に寝室に入るとレーナルトが政務を終えるまでに眠り込んでいることが多い。
 レーナルトが頬や額に口づけると、夢の中で嬉しそうに微笑んで彼へと身をすり寄せてくる。
 今の彼にはそれで十分だった――リティシアを抱きたいという欲求がなくなったというわけではないけれど。

「そう言えば」
 茶道具を載せたワゴンを運んできたゲルダが二人の話に加わった。
「わたくしが息子を身ごもった時は、眠くて眠くて一日中あくびばかりしていたものでした。あの頃はお城からさがっていましたから、昼間の大半を横になって過ごしていましたよ」
 ゲルダの言葉に、リティシアはもう一度眠い目をこする。そう言えば、しばらく月のものがきていないような気がする。最後に来てから三月になるか。 

 流れるようないつもの手つきで、リティシアは茶を入れる。きちんと時間をはかって、各自のティーカップに注いだ。
「あなたのいれてくれるお茶はいつもおいしいね――ああ、そこの焼き菓子を一つ取ってくれないか」
 レーナルトは誉めてくれたのだけど。
 ティーカップに口をつけたリティシアは、違和感に眉を寄せる。
「あの、本当にいつもと変わらない味ですか?」
 リティシアのその言葉に、側に控えていたゲルダは彼女に近づいた。

「失礼します」
 額に手をあてる――それから、リティシアの耳に何事かささやいた。
「どうしたのか?」
「いえ、リティシア様は少々お疲れのようです。念のためにお医者様に診ていただきましょう」
 母親がわりに付き添っているゲルダの言うことには、レーナルトもうなずいた。なにしろリティシアが幼少の頃から仕えているのだ。彼女のことならレーナルトより詳しいだろう。

 その後の予定は取りやめて、ゲルダが呼んだのはウィニフレッド・パウラー医師だった。彼女は、貴族女性の間で妊娠、出産に関しては権威と言われるほどの女医だ。
 リティシアもなかなか子に恵まれないことから、相談にのってもらったことがあった。

 リティシアの寝室、丹念に彼女を診察したパウラー医師は満面の笑顔になった。
「おめでとうございます。ご懐妊ですよ」
 いつもと味覚が変わったのも、眠気もそれが原因のようだ。

「あら――どうしましょう」
 リティシアは困った顔になった。夫になんと言えばいいのだろう。
「もう陛下にはお話した方がいいのかしら?」
「そうですねぇ」
 医師は思案顔になる。
「しばらくの間は『ご夫婦の触れ合い』を控えていただく方がいいでしょうし……陛下にはお話になられた方がいいと思いますよ」

 それから細々とした指示をいくつか与えて、パウラー医師はリティシアのもとを辞した。
 眠気には勝てない。今夜は夫とは別々の夕食だ。食欲があまりないので、軽いものを用意してもらった。
 
 湯浴みのために湯殿に向かう。浴槽の湯に身を沈めたリティシアは自分の下腹部に手をあてた。まだ平らなそこに、新しい命が宿っているなんて信じられない。
 いつものように寝支度を手伝ってもらって、リティシアは夫婦の寝室へと入った。
 今夜は夫が戻ってくるのをどうしても待っていなければ。

 眠りに落ちてしまいそうなのを我慢して、リティシアはレーナルトが戻ってくるのを待つ。
 ベッドに腰掛けたままこくこくしていると、
「リティシア」
 そっと肩をゆすられる。
「レーナルト様」
 リティシアは夫に微笑みかけた。

 彼の夜着を掴んで自分の方へと引き寄せる。レーナルトはその手を押さえて、顔をしかめた。
「こんなに冷たくなって。だから我慢しないで寝なさいと言っているのに」
 何度か繰り返した小言をもう一度繰り返しながら、レーナルトはリティシアの額に唇をそっとあてた。
「あのっ……」
 冷たくなったリティシアの手をレーナルトの手があたためるように包み込む。

「あのっ……お話しなければならないことが……」
 そんなことを言っている間にベッドに押し込まれた。
「何?」
 片手でリティシアを抱き抱えたレーナルトは、もう片方の手をリティシアの身体の線にそって撫で上げ、撫で下ろし、穏やかな快感をリティシアの身体へと送り込んでいる。

「あのう、レーナルト様」
 リティシアは身体をなぞっているレーナルトの手をそっとおろした。
「あの」
 さっきから同じ言葉しか出てこない。もどかしがっているリティシアをあやしむ表情がレーナルトにうかんだ。

「あのですね……」
 一気に言葉にしてしまえばいい。リティシアはレーナルトの胸に顔をうずめる。
「……身ごもったようです……」
「……」
 返事はなかった。
 喜んでいないのだろうか――? おそるおそるリティシアは、レーナルトの顔を見上げた。

「……身ごもった?」
「……はい」
 見上げたレーナルトは青ざめていた。
 喜んでくれると思っていたのに。リティシアはどうしたらいいのかわからなくなって、身をこわばらせる。
 
 ベッドから転がり落ちるようにして、レーナルトは姿を消す。
 怒らせた――? リティシアは不安に思いながらも、レーナルトが姿を消したのが、リティシアの寝室だったことに気がついて後を追うのはやめておいた。

「ゲルダ!」
 リティシアの寝室に飛び込んだレーナルトは呼び鈴を鳴らしてリティシアの侍女を呼びつけた。
「リティシアが身ごもったというのは本当か?」
「……本当でございますよ」
 呼びつけられたゲルダは、平然とレーナルトの言葉を受け止めた。

「あの腰――あんなに細い腰で産めるのか? 問題ないのか?」
 むろんリティシアがみごもったのは、嬉しいことで、彼もそれを望んではいたのだけれど。
「大丈夫でございますよ。確かにリティシア様は華奢でいらっしゃいますが、それで子どもが産めないようならとっくにローザニアは滅亡していますよ」
 出産は命がけの大仕事ではあるのだけれど――それを今、目の前の男に言うのはゲルダは避けた。

「そんなことより、リティシア様を一人にしておかれているのですか?」
 きつい目で見すえられて、思わずレーナルトはたじろぐ。
「早くお戻りになってください」
 さっさとレーナルトを夫婦の寝室へと追い払って、ゲルダはため息をついた。
 身ごもっただけでああなのだから、いざ出産となったらどれほどの騒ぎになるのだろう。
 出産までの間に、王の教育もしておいた方がよさそうだ。パウラー医師にそのことも相談しなくては。
 リティシアの忠実な侍女は、やらなければいけないことの一覧にそれを追記した。

「どうかなさったのですか?」
 戻ってきたレーナルトにリティシアはたずねた。
「いや、何でもない……少し、驚いただけだよ」
 リティシアをひき寄せて、レーナルトは改めて口づける。

「本当に嬉しいよ」
 もう一度口づけて、レーナルトはリティシアをいたわった。
「大事にしてほしい。もう、身体を冷やさないように、ね」
「はい、わかりました。冷やしません」
 リティシアはレーナルトによりそう。
 第一子は王子がいい。彼の跡取りになれるように――この後、七人続けて男児に恵まれることなどこの時の二人は知るはずもなかった。


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