最後の女神




再びの過ち

 その日はそのまま好晴君の家に泊まった。
 体裁を整えた外泊届さえ出しておけば、行先についてはあまり詮索されないのだ。特に、行く先が以前寮に泊まりに来た女の子である場合には。
 わたしが住んでいる寮では、寮長に実際に引き合わせて女の子であることが確認できれば友達を泊めることは別にかまわない、とされている。友人や家族を泊めるためのゲストルームも用意されているけれど、うるさく騒がないなら自分の部屋に泊まってもらってもかまわない。シングルベッドに二人で寝ることになるから、狭いけれど。
 それはさておいて、以前泊まりに来た友人の家を外泊先にしておけば、寮長としても安心できる――というのが建前だ。実際にその友人の所に泊まりに行ってるのかなんて確認されないし、よほどのことがない限り携帯に電話がかかってくることもない。
 そういう風にアリバイ工作を頼むことを覚えれば、外泊はそれほど難しくない。わたしも、実家住まいの友人たちのアリバイ工作を引き受けているからお互い様だ。

 寮のわたしの部屋と同じ、彼のシングルベッドは狭いけれど、ここで彼とくっついて寝るのは好きだ。他の人の体温って無条件に安心させてくれる気がする。
 それはそうと、今日は好晴君はアルバイトに出かけるから、わたしも帰った方がいい。わたしは好晴君の腕枕から抜け出した。
「……そろそろ支度しないと、バイト間に合わなくなっちゃうよ?」
「ごめん、もう一回」
「またぁ?」
 ベッドから抜け出して、帰り支度を使用とすると引き倒された。朝からしたくなることがあるって知らなかったから、最初の時は驚いたけど、今ではだいぶ慣れてきた。
 何となく昼過ぎからじゃなきゃできないんじゃないかって――昼からだって朝からだってその気になればできそうなものなのに。

 ベッドでじゃれあって、それから今度こそ彼の部屋を後にする。今週末は、彼の方に予定があるから週末は一人で過ごさなくちゃならない。
 寮に帰れば誰かいるだろうし、一人でいたって退屈はしない。寮の食事は、朝と夜だけだから、食べて帰るか買って帰るかしないとだけど。一人で食事をする店に入るということができなかったから、コンビニで何か買って帰ることになるだろう。

 てくてくと歩いてあともう少しで寮に着くというところだった。鞄に入れていた携帯が鳴る。発信者の名前を見て、ぎゅっと唇を結んだ。
「桑原直哉」……彼からかけてくるのは、たぶん、ホテルへの誘い。でも、今は付き合ってる人がいるから――着信音がやむまで携帯を睨み付けていた。
 電源を切るか、出ればいいのに、どちらできなくて。切れた瞬間、鞄に放り込もうとするけれど、その間もなく再び携帯が鳴りはじめた。
「……もしもし?」
 声を聞きたいという誘惑に抗いがたくて、ついには通話ボタンを押してしまった。間違っているとわかっているのに

「何で出なかった?」
「ごめん、外歩いてたから気が付かなかった」
「……出かけるところか?」
 最初、強い口調で出なかったことを咎めた癖に、すぐに気遣う口調に変化させてくる。やっぱりこれは年上の余裕なのかなぁ、どうせ遊び相手だし、と卑屈になった。
「帰るとこ――彼氏の家からね!」
 張る必要のない意地を張ってみる。わたしに付き合っている人がいてもいなくても直哉には関係ないだろうけれど。

 おかしなことに向こう側で直哉は黙り込んでしまった。それから、
「昼飯は?」
「まだ、食べてない。寮では出ないから、買って帰るつもり」
「今どこだ?」
 寮の近くの店の名前をあげる。ちょうど今その前に立っているところだった。
「近くにいるんだ。何か食いに行こう」
「……何かって」
 今度はわたしが黙り込む番だった。直哉とはホテルへの往復以外で二人きりになったことはほとんどない。今さら二人きりなんて言われても、困ってしまう。

 けれど、直哉は強引に電話を切るとそれから五分もしないうちにやってきた。見慣れた桑原家の車がわたしの前に停まる。
「どうしたの、これ」
「朝から休日出勤だったんだけどさ――システムの関係で明日やり直しになった。というわけで、静が暇なら飯でも食わせてやろうと思って」
「ふーん」
 休日出勤自体は珍しいことじゃないだろうけれど、何もいとこを誘わなくたってよさそうなものなのに。

「彼女を誘えばよかったのに」
「あいつも忙しいんだよ」
「そっか、社会人だもんね」
 直哉も付き合ったり別れたり、何人か彼女がいるらしい――というのは、母親同士の情報網を通じて伝わってくる。直哉が付き合うのは、だいたい同じ年の女性で、ばりばり仕事をしているタイプが多いらしい、という情報まで入ってくるのだから仲のいい親戚が隣にいるのって恐ろしい。
 きっとわたしのことも伝わっているのだろうけれど、たいした話もないので諦めている。まだ親には好晴君のことは言ってないし。

「何食いたい?」
「……ステーキ!」
「高いもん、強請るなよ」
「だって、こっちじゃ食べられないもん」
 仕送りをしてもらって、アルバイトもしているけれど、学生の身分でステーキハウスには行けない。しかたないな、と言った彼はステーキメインのファミリーレストランへと車を向けた。

「彼氏とはどうだ?」
 それぞれに注文をすませてから、直哉がたずねてくる。
「……う、うん。まあ上手くいってると思うよ。すごく優しいし……大学でもほとんど毎日会ってるしね。あ、これからはそうもいかないか。就職活動始まるし」
「静は何がしたいんだ?」
「教職もとったけど、先生にはならないだろうなーって思った。まあ、一生続けられそうな何かを探すつもり。公務員試験も受けるつもり」
 難しいことは期待していない。大手商社とかそういう無謀なところを狙うつもりもない。地元に戻って公務員試験を受けるつもりだ。

 好晴君と結婚できたらななんて甘いことを考えないわけじゃないけど……それもいいかな、なんてずるいことも考えているのも本当だけれど。ずるいのは認める。
 それにわたしのことを好きでいてくれるのは間違いないけど、忘れられない人がいることを知って付き合っているわけで、彼の方もそのつもりはなさそうだ。
「そんなに仕事に生きるつもりだったっけ?」
 直哉は少しバカにしたような口調で言った。
「そういうわけじゃないけど、……たぶん、一生一人、だから」
「今の彼氏とは将来の話とかしないのか?」
「そういう人じゃないもん。地元に戻るって言ってたし」
 何より問題なのは、彼が地元に帰るつもりでいるということだった。

 彼の地元は北海道――卒業したら会うことは難しくなってしまう。遠距離恋愛になったら、それほど長続きしないだろうって予感がしていた。きっと、こんな風な付き合いだから将来のことなんて考えられないのだろう。 信じてないって口調にも表情にも表すと、直哉は気まずそうに視線を反らした。

「――今日、これからどうするんだ?」
「寮に帰って、洗濯して、掃除して、それから有紀ちゃんの部屋に遊びに行こうと思ってる」
 たぶん、寮で夕食をすませて、皆で買い出しに行くだろう。未成年に飲ませなければ、寮長もうるさいことは言わないから、誰かの部屋で飲み会になると思う。二十歳を過ぎた今は、堂々とコンビニでお酒を買って寮に持ち帰ることができるし。
「まだ、時間あるよな」
 直哉の目が、今までと違う光を帯びる。
 ちょうどその時、目の前に熱々のステーキが運ばれてきたけれど、味なんてわからなかった。
 わたしは誘惑に負ける――そんな予感しかしなくて。

 そして、その予感は本物になった。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ