最後の女神




妹の家庭教師

 好晴君とは長続きしないだろうというわたしの予想は大当たりだった。二人そろって就職活動を終えた頃、彼は無事に地元北海道の企業から内定をもらっていた。
「内定、おめでとう」
「……ありがとう。静も」
「うん」
 わたしの就職先は希望していた物とはだいぶ違ってしまったけれど、就職できただけよしとしよう。卒業式を終えても、仕事が決まらない友人も何人もいた。
 同じ寮で四年間、一緒に楽しくやってきた有紀ちゃんは早々と就職を決めていた。彼女は東京に残ると言っていたから、今後もしばしば会えるかもしれない。

 わたしと好春君は、『花谷』で最後の食事をすることにしていた。
 ここで食事をしようと言ったのはわたし。
 彼との最後の思い出が欲しかった。好春君と付き合っている間、幾度となく直哉に呼び出されていたというのに。
 直哉との付き合いにはどろどろとした醜い感情しか持てなかったから、好春君との時間を心の安定を図るのに利用していた面もある。
 これで友人に戻ろう、という話は『花谷』での食事の前に二人の前で完全に結論が出ていた。だから、お別れになるのは寂しかったけれど、二人の間に流れている空気は居心地悪い物ではなくて、静かで穏やかなものだった。

「静と一緒にいられて楽しかった。でも、先輩の言っていたことは本当だったんだな」
 二人の前に置かれているのは、ワインのグラス。銘柄なんてわからないし、学生の多いこの店では店員さんの方も慣れていて、さらりとお勧めを教えてくれた。
「静の中には、誰か他の人がいるんだ。それでもいいと思ってたけど、やっぱキツかったな」
「……ごめんなさい」
 謝ることしかできなかった。彼の好意に甘えきっていたのは事実。二人で過ごす時間はほわほわしていて楽しかった。わたしも彼が好きだった。彼がわたしにくれる好き、とは種類が違うけれど。
「それでいいから付き合ってくれって言ったのは俺だから、静は謝らなくていい」
 寂しそうに笑う彼の顔を見て、痛感させられる。彼は、わたしのことを好きでいてくれたんだ。わたしが思っていたよりずっと強く。
「言っても信じてくれないだろうけれど、わたしも好き、だった」
「知ってる。俺が静の中で一番になれなかっただけ――でも、静と一緒にいられてよかったと思うよ」
「……ありがとう」
 悪いのはわたしだから、絶対に泣かない。精一杯の微笑みを作ってグラスを持ち上げる。二人のグラスがかちりと鳴った。

◆ ◆ ◆

 彼が東京を離れて北海道の実家に帰ったのと同じ頃。わたしも、寮を引き払って実家に戻った。通えば通えないことのない距離で、無理を言って過ごさせてもらった四年間。
 わたしが内定をもらったのは、全国展開している予備校だった。講師ではなくて事務。生徒たちの管理をしたり、先生のシフトを確認したり――振替授業を上手く入れ込んだり。
 大抵のことはコンピュータ任せでいいけれど、人の手が入らなければならないところはたくさんある。
 一生続けられないだろうとは思っていたから、ここを足掛かりに数年のうちに転職するつもりでいる。拘束時間が比較的長いのと、夜遅いのが困ったところだけれど、若いうちなら軌道修正できるはずだ。

 働き始めてすぐ、わたしは家に異変が起こっているのに気が付いた――というのは大げさか。結に家庭教師がついたのだ。
 四年間家を離れていたから、お客さんが来るのには慣れていなかった。見慣れない男物の靴に少し驚いたけれど、リビングに入ってみたら妹と一緒にお茶を飲んでいた。
「……こんにちは」
 こちらから挨拶をすると慌てて彼は立ち上がる。
「は、長谷川大地です! 結さんの家庭教師をしています!」
「先週から来てもらっているの」
「今日はお夕食を一緒に食べてもらおうと思って」
「長谷川君、ね。よろしく。えっと姉の静……名前は聞いてた?」
「はい!」
 わたしより少し年下の彼は、周囲にいる男の人たちと違って見えた。若さが眩しい、なんて自分だって彼とたいして年齢が変わらないくせに妙に年寄じみた感想を抱いてしまう。

 長谷川君は好青年だった。
 最近の子は大きいねぇ、とわたしはひそかに感心してしまったのだけれど、ものすごく背が高い。百九十近くあるんじゃないだろうか。けれど、そのわりに体格の方はほっそりとしていて、ひょろり、として見える。腕と足が長くて、日本人離れしたスタイルだった。
「アニメキャラみたいって言われるんですよ。妙に腕が長いから」
 わたしの視線に気づいたのか、苦笑いして、長谷川君はもう一度座る。
「ねえ、先生。来週、どこまでやってくんだっけ?」
「三章まで。終わってないと、遅れが出るから頑張って仕上げておいて」
 妹が家庭教師の先生になついているのに安堵して、わたしは着替えるために自分の部屋へと入ったのだった。

 結と長谷川君の仲はいたって良好だった。就職活動はどうするのかと思っていたら、受け持っているのは結一人。今までに何人もの生徒さんを教えてきて、結が最後の生徒になるのだそうだ。
 就職活動が優先で、振替が多くなるかもしれないという条件付きだったけれど、彼はよくやってくれたと思う。
 日をずらした時には、結のメールアドレスに新しい宿題が届いた。
「めんどくさい」
 と言いながらも、結は彼の出した課題に一生懸命取り組んでいたから、何とかやっていけたのだと思う。
 母も長谷川君が気に入ったらしくて、彼はしばしば我が家で夕食を食べていくようになった。わたしは、仕事の都合もあって顔を合わせることはなかったけれど、「いい人」だとは思っていた。

「静のとこの家庭教師さー、どういうつもりなんだ? 飯まで食ってくって」
 そう直哉が言いだしたのは、最初の時から使っている茗田駅近辺のラブホテルだった。そろそろここの従業員に顔を覚えられていても驚かない。だって、割引チケットだって持ってるし。
「いいじゃない。いい人よ。結もなついて成績上がってるし……」
 現役の学生は意外なところで成績が急上昇したりする。それはわたし自身が何年も前に身をもって証明したことだった。猛勉強の理由は、今、一緒にいる男から逃れるためだったけど。

 直哉との付き合いは相変わらずずるずるとしたものだった。わたしの方は付き合っている人なんていなかったから、まあいいかと半ば諦めていた。どうせ、彼女が会えない時の代理だもの。
 直哉と彼女が結婚して、落ち着いたなら――その時こそ関係が終わる時なんだろうとぼんやり考えていた。まさか直哉だって、親戚同士で不倫なんてさせないでしょう、と。
 直哉の彼女に申し訳ない、と思う気持ちなんて、とっくにどこかに行ってしまっていた。慣れるのって怖いと思う。似たような状況にいる他の人から相談を持ちかけられたら、「やめておきなよ、そんな男」って言うだろうに。

「だからって、図々しくないか?」
 何が気に入らないのか、直哉は長谷川君のことについてまだ文句を言っている。
「そう? 友達もけっこう夕食に誘われてたし普通だと思うけど」
 わたしはやらなかったけれど、有紀ちゃんなんてお金持ちの家に家庭教師に行っていたから、授業のある日の夕食はすごく豪華だったらしい。
「そうかあ?」
「何でそんなに気にするの? 結が合格したら、もう会わなくなる人なのに」
「結に悪い気でも起こしたらどうするんだよ?」
 なんて、大真面目な顔をして言うもんだから、大笑いしてしまった。自分は十も下のいとこに手を出しておいて? それを口に出すのは遠慮しておいたけれど。

 彼がわたしを利用するのなら、わたしも彼を利用すればいい。とことん都合よく。
 抱きしめる身体が飢えることだってある。だったら、どこまでも利用させてもらって抱きしめてもらえばいい。こっちはこっちで、好きなようにする。誰も好きになれなくたって、それだけが人生じゃないし。
 この頃にはわたしも開き直っていた。こんな開き直り方がいいわけないのもわかっていたけれど――隣に直哉が住んでいて、その気になれば毎日だって顔を合わせられる時だというのに諦められるはずなんてない。諦められない原因が、執着なのか恋情なのか肉欲なのか、それさえも曖昧だった。与えられるものにただ、溺れるだけ。
 学生、門限という枷がなくなった分、わたしは直哉の身体に溺れていた。家族が気づかないのが不思議なくらいに。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ