最後の女神




一日だけの

 長谷川君に声をかけたのは、結の合格発表がちらほら届いた頃だった。
 本命に合格した結のために彼は合格祝い――ブランド物のボールペンとシャープペンシルのセット――を用意してくれていて、まるで自分の妹が合格したみたいに大喜びしてくれた。
 結の成績は、皆が予想していたより上昇して、おかげで長谷川君にはとても感謝しているみたいだった。それはわたしも同じだった。
 頑張ればなんとかなるかもしれないって思っていても、それが実現するかどうかは別問題だ。プレゼントを届けに来てくれた長谷川君が帰るのに合わせて、わたしも家を出た。
 コンビニに買い物に行くという理由もあったけれど、自分からも彼にきちんとお礼を言いたかったから。

「長谷川君のおかげで、結の成績、すっごく上がったんですってね。わたしからもお礼をしたいんだけど、何がいい?」
「お礼、ですか?」
 長谷川君は驚いた表情になった。それを見て、しみじみとこの半年の間にずいぶん大人になった、と思う。
 表情がしっかりしてきて、早くも学生の顔から社会人の顔になりつつあった。自分より年上のように一瞬感じて、思わずどきりとしてしまう。だからといって、この先何があるといいうわけでもないけれど。

「お礼なんて……俺は自分のやるべきことをやっただけだし。家庭教師なら、生徒の成績が上がるように努力するのは当然のことでしょう?」
「知ってる。長谷川君のお給料は、家の親が払っているんだから。でも、それとこれとは別問題。わたしが、お礼をしたいの――安月給だから高い物おねだりされると困るけど」
 冗談まじりの口調で言ったけれど、長谷川君は表情を改めた。まっすぐにわたしの目を見つめて言う。
「本当にお礼をしてもらえるんですか?」
「するよ? 何が欲しい?」
「……欲しいもの」
 長谷川君は、うーんとうなって天井を見上げる。そうしていると、やっぱり大人にはなりきれてない表情になってわたしは思わずにこりとしてしまった。

「デート」
「え?」
「一日、俺に付き合ってもらえませんか?」
 今度はわたしが目を丸くする番だった。
「そんなのでいいの?」
「はい!」
 元気よく返事をするから、おかしくなってしまう。こんなわたしとでもデートしたいんだ。それがお礼になるのなら、とわたしは彼の誘いに乗ることにした。
「じゃあ、今度の日曜日……どこに行こうか?」
「俺にまかせてください」
 長谷川君は、にっこりとすると待ち合わせ場所を指定してきた。

 長谷川君と待ち合わせたのは、茗田駅前だった。このあたりで遊ぶ場所と言えば、ここが一番近いから納得と言えば納得の選択だ。ここに降りる時は、たいてい直哉と一緒の時。改札前で待ち合わせて、駅前のラブホテルに直行するのがいつもだったから、改札で待ち合わせてそのままぷらぷらと歩き出す、というのは新鮮な感覚だった。
「どこに行くの?」
「まずは、食事でもしましょう」
 待ち合わせ時間が昼食ちょっと前だったから、そうなるのは予想していた。どこにいくのかな、と思っていたら駅前のピザ屋に連れて行かれる。こんなところにピザ屋があるのなんて知らなかった。
 
 二枚のピザを頼んで、二人で半分ずつ分け合う。わたしはマルゲリータ、長谷川君はビスマルク。サラダや小さなおかずも分け合って食べる。皮が薄くてぱりぱりしていておいしい。
「ごちそうさまでした」
 満足して、わたしは紙ナプキンで口元を押さえる。
 本当においしかった。今度はここに結と来てもいいかもしれない。結は、家から通える範囲の大学に通うことになっていたから、これからも一緒に生活するのだ。ここに一緒にくる機会もきっとある。

 グラスの水を一口飲んで、長谷川君にたずねる。
「これからどうするの?」
「デートと言えば、映画でしょう」
「映画?」
「チケット、買ってあるんです」
 映画館でデートなんて久しぶりだ。大学を卒業してから二年間、誰ともこんな風にデートすることなんてなかったから。

 レジの前で押し問答になった。
「お礼なんだから、ここはわたしが払うのが筋じゃない?」
「でも、今日誘ったのは俺ですから」
 これじゃお礼にならないのに、レジの前で長い間揉めているわけにもいかなくて、結局彼に払わせることになってしまった。

 映画は頭を空っぽにして見ることのできるアクション映画。わたしの好きな俳優が出ているので、思っていたよりずっと楽しめた。
 映画館を出ると、今度は路地裏のあまり人がいないカフェに連れて行かれた。映画を見て、お茶をして――のんびりと時間が過ぎていく。こんな風に過ごすのなんて久しぶりだった。
「ねえ、わたし、あの俳優好きって言ったっけ?」
「言ってましたよ。夕食食べた時に。ずいぶん前だったから、まだ好きかどうかはわからなかったんですけど、あれからスキャンダルとかも特になかったから、少なくとも嫌いにはなってないかなと思って」
「本当に?」
 長谷川君が家で夕食を食べるのは家庭教師の後ほぼ毎回だったから、食卓でそんな会話がかわされたことがあったかもしれない。わたしの方は完全に忘れてしまっていたけれど。

「えー、覚えてない」
「でも俺が覚えてますから」
 そうやって笑ってくれるとなんだかどきりとしてしまう。
「も、もう就職は決まっているんだっけ?」
 彼がちゃんと内定をもらったことくらいわかっているのに、話題を変えようとして焦ってしまった。けれど、彼はにこにことしているだけだった。
「はい。四月から不動産会社で働きます」
「就職、おめでとう」
「ありがとうございます」
 結局わたしはずるずると駅前の予備校で働いている。最初のうちは転職しよう、なんて意志もあったけれど、穏やかに過ぎていく日々も悪くないと思った。
 希望をもって新しい環境に踏み出していく彼が眩しくて目を細めた。

「本当にこんなのでお礼になったの?」
 帰り道、わたしはたずねる。今日、お礼だからと全部わたしが払うつもりで来たのに長谷川君はわたしに財布を出させようとはしなかった。昼食も、映画も、お茶も。
「いいんですよ。俺、静さんにすごく興味があったんです」
「……興味?」
 好意、ならわかる。男性が女性に向ける類の好意を彼がわたしに持っているのなら、こんな風に一緒に一日過ごしたい――そして、その先も期待したい、と思ったとしても、間違いではなくて、とても正しいことだと思う。
 人は誰しも空っぽな場所を抱えていて、それを埋めるために他の誰かをもとめるものだ――とは、どこで聞いた言葉だったのだろう。

 わたしは自分の空虚を埋めるために直哉をもとめて、でも直哉ではその空虚は埋まらなくて、他の人と付き合ってみたりもしたけど、それでもやっぱり埋まらなくて。今では空虚とうまく付き合う術を身に付けつつあった。
「授業の後、よく食事をご馳走になりましたよね、俺。静さんも、家にいる時は絶対食事の場に顔を出すじゃないですか」
「だって、それって当たり前でしょう?」
 わたしは首を傾げた。食事の時くらいはきちんと顔を合わせて食べようというのは昔から変わらない。

「俺の家って、出来上がっているものを勝手に食べるんですよね。家にいても、そろうことってなかなかなくて。結ちゃんはとてもいい子だし――だったら、お姉さんはどうなんだろうって。すみません、本当に好奇心なんです」
「なるほどね。一日一緒にいて見えてきた?」
「少しだけ。一日で全部を知るのなんてやっぱり無理でした」
 照れくさそうに長谷川君が笑うから、少し意地悪をしたくなった。一日だけじゃない。ずっと側にいたって見えないこともある。

「一日で知ることができるくらい浅い人って思われてたんだ?」
「ち――違いますよ!」
「……ちょっとからかっただけ。ごめんね」
 焦る長谷川君が、とても可愛く見えた。きっと、彼にはすぐに可愛い彼女ができるんだろうなと思うと、胸のあたりがきゅっとなった。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ