最後の女神




穏やかな恋

 直哉の転勤が決まったのは、それから一月後のことだった。
「転勤のある会社なんて知らなかった」
「大分ってまたずいぶん遠いのねー」
 桑原家のリビングに皆が集まっている。直哉の会社は全国に支社があるから、今まで転勤の話が出なかったのが不思議なくらいなんだそうだ。
「一度くらい、地方で修行してこいってさ。まだ身軽だし」
「早めに結婚しておけばよかったのよ。二年くらい前にだって、チャンスはあったんでしょう?」
 伯母さんがそう言うのに胸が痛くなる。

 それをごまかすために、慌てて、必要もないミルクを紅茶に注いだ。二年前ってどの彼女のことなんだろう。直哉の彼女はわりとしばしば変わっているからわからない。
「なかったとは言わないけど、相手がオーケーしてくれなきゃ結婚はできないだろ?」
 直哉の声がちょっぴり不機嫌になる。ああ、彼はまだ結婚しないんだ、と少し安堵した。
 すぐに安堵した自分に自己嫌悪を覚える。この繰り返しはあと何回続くのか――いつまでたっても慣れることはできそうにない。
「だってぇ、あなたの中学の同級生、皆結婚してるじゃないの」
 晩婚化が進んでいるらしいけれど、三十過ぎれば結婚している人だって増えてくる。直哉がフォーマルスーツで出かけるのを窓から見下ろしたこともあったっけ。

「だーかーら、恋愛と結婚は別なの。俺じゃ結婚できないって相手が言うんだからしかたないだろ?」
「何が悪いのかしらねぇ」
「顔? 性格? それとも財力?」
 長年隣に住んでいて、自分の息子と変わらないものだから母も容赦ない。
「そこまで顔も性格も悪くないはずだぞ、ひどいな、叔母さんも」
 直哉はわざとむくれてみせた。こちらも自分の母親に対するのと大差ない扱いだ。

「あー、じゃあうちに二人いるからどっちかどうだ?」
 余計なことを言い出したのはわたしの父。ソファにおとなしく座っていた結が勢いよく立ち上がった。
「わたしヤダ! だっておじさ……」
 言いかけて、あ、と口を閉じた。
「どーせ俺はおっさんだよ、三十過ぎたさ!」
 軽口をたたき合っている皆の間で、わたしは一人会話に加わることができなかった。うちに二人いるから、なんて父もずいぶん軽い口調で言ってくれたものだ。

「だいたい、結婚してたくらいじゃ転勤断れるはずないだろ? 家族を連れていくか、単身赴任になるかどっちかだよ」
「それもそうねえ……あ、お茶のお代わりいる人は?」
 伯母さんがタイミングよくお茶を新しく入れ替えることにしたから、わたしは慌ててカップを空にした。
 せっかく離れるのだから、これはいい機会なのかもしれない。今度こそ諦められるかもしれない。
 前に離れた時よりずっとずっと距離が離れていて、わたしが大学生だった時みたいに仕事の帰りに会うなんてこともできなくなるんだから。

◆ ◆ ◆

 直哉は慌ただしく荷物をまとめて出発していって、残されたわたしたちはというと、以前と変わりない生活を送っていた。
 一つ変わったことと言えば、隣に住んでいた桑原家が駅前のマンションに引っ越しをしたことくらいだ。
 前から計画はしていたらしいのだけれど、直哉が独立するまでは、と我慢していたらしい。
 肝心の直哉がいつまでも独立しないものだから、転勤を契機に前からの計画を実行に移したというわけだ。伯父さんは数年前から足を悪くしていて、それ以来二階には上がらないようになっていた。
 日常生活に不便はないらしいけれど、段差のないマンションの生活の方が楽に決まっている。残された桑原家は賃貸に出されることになって、元気のいい子どもが三人いる一家が引っ越してきた。
 隣家が賑やかなのにはまだ慣れない。けれど、こうして変わっていくのもまたいいのではないかと思った。

 直哉への気持ちを、他の人に向けたい。そう思っても、頭で恋愛なんてできるはずもない。その次に付き合ったのは、会社の同僚が紹介してくれた男性だった。
 志野琉太。一つ年上の、でも年齢より少し幼く見える可愛い感じの男の人。好意なんて持っていなかったけれど、相手に好意を寄せられたら悪い気はしなかった。
 友情から恋愛感情に発展することだってあるかもしれない。相手を傷つけるような恋愛ばかりしてきたあの頃とは違うと思っていた。

 琉太さんの家は、わたしの地元から一つ離れた隣の駅にある。駅から少し歩く分、家賃が安くて広め。置いてある大きな家具はベッドとテレビだけ。
 食事をするのは、折りたたみ式の小さなテーブル。ちゃぶ台って言った方が近いかな。壁際のカラーボックスの上に、ノートパソコンが置かれていて、それを使うのもちゃぶ台の上。
 余計な家具を置いていない分、部屋は広く使える。普段はベッドの足側と壁の隙間に押し込んであるビーズクッションは二つ。最初は一つだったけれど、わたしの分を買い足してくれたけれど、圧倒的に床の上でごろごろしている方が多いから、クッションの出番はほとんどなかった。

 彼との付き合いは、とても気楽だった。
 同じベッドで眠るのも、身体を重ねるのも、一緒にお風呂に入るのも嫌だなんて思わなかった。ただ隣にいるだけで、すごく楽。

「静ちゃん、明日はどこに行く?」
「一緒にいられれば、それでいい」
 仕事の帰りに待ち合わせたのは、彼の最寄りの駅。彼の部屋までゆっくり歩きながら、明日の計画を立てる。
「静ちゃんはいつもそれだ」
「だって、一緒にいられたら本当にそれでいいんだもの。今日はDVD借りて、部屋で見る?」
「今日は泊まっていけるんだっけ?」
 期待するように、つないでいた手を、指を絡めるようにつなぎ替えられる。
「帰らないって言ってきたから」
 さすがに女友達の家に泊まることにしてあるけれど、学生の頃とは違ってそれほど煩くは言われない。きっと親もどこかで感じ取ってはいるのだと思う。

「わたしね、琉太さんと一緒にいられたらそれでいいの」
 自分に言い聞かせるように繰り返す。何度も。何度も。
 直哉はめったに大分から戻ってこなかったから、顔を合わせることもなくなっていた。のんびり、のんびりこうやって琉太さんと過ごしていたらそのうち忘れられるのかもしれない。
「じゃあ、ホラーにしようかなー」
「えー、怖いのはちょっと」
「怖いと静ちゃんがくっついてくるだろ?」
「それが狙いって先にばらしちゃったら意味ないんじゃないの?」
「じゃあゲームする?」
「ヤダ。絶対勝てないもん」

 じゃれ合いながら歩いて行って、レンタルDVDの店に入る。ホラー映画の棚の前でいちゃいちゃしながら、キスをして、それからものすごく怖いのを借りて帰る。
 なんだかそうやって過ごすのが、すごく幸せだった。
 後ろめたい気持ちがないと言えば嘘になってしまう。わたしは一生懸命心を琉太さんに向けているつもりだけれど、まだわたしの気持ちは直哉に縛り付けられているのかもしれない。しばらく会わないでいるうちに、どうなのか自分でもわからなくなった。このままこの気持ちが消えていけばいい。

 琉太さんの家のキッチンは狭い。
 実家でも少しずつ料理するようになっていたけれど、狭いキッチンで料理するのは大変だ。
 だから、この家に来た時には簡単なものしか作らない。
 今日もパスタを茹でて、レトルトのソースをかけて。帰りに買ってきた野菜でサラダとスープを作っておしまい。
 どうせ後でポテトチップスをつまみながらDVDを見るんだから、軽いくらいでちょうどいい。
 琉太さんはパスタじゃ足りないって、毎回二人分食べる。だから、彼のお皿にはパスタが山盛りだった。
「やっぱ、彼女の手作りっていいよなー」
「琉太さん、それ、レトルト」
「でも愛情がこもっているもん」
 臆面もなくそんなことを言われたら、顔が赤くなってしまう。真っ赤になったわたしをからかうように、琉太さんは身を乗り出して、わたしの鼻の頭にキスをした。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ