最後の女神




思うようにいかない

 琉太さんとの付き合いは順調だった。もともと同僚の紹介で付き合い始めた相手だ。今までお付き合いしてきた人に感じていたみたいな熱烈な恋愛感情はなかったけれど、一緒にいるととても落ち着くことができた。
 好晴君の時みたいに、必要以上にわがままになるのも嫌だったから、彼とのお付き合いを初めてから、わたしはそれなりに気を使っていた。けれど、そうやって気を使うのもまた何というか「彼が好きだからできる」と、恋を盛り上げるための小道具の一つみたいにわたしの中では捉えていたと思う。
 そういう風にしながらも彼との時間は居心地よくて、結婚するならこんな人がいいのかもしれない。なんて、勝手な想像まで膨らんだ。
 わたしが直哉にとらわれ過ぎていたのも彼がすぐ近くにいたからだ――なんて、甘い考えに支配されていた。

 この年になれば、遅く帰っても親も口やかましいことは言わない。次の日、きちんと自分で起きればだけど。仕事が早番の日、琉太さんの部屋に行って簡単な夕食を用意する。
 部屋の掃除もさっとしてしまえば、新婚生活を先取りしているみたいで楽しかった。わたしが作った豚の生姜焼きとポテトサラダを完食した琉太さんは、満足そうにわたしを引き寄せる。
「今度の日曜日はどこに行く?」
「……水族館行きたいな、水族館。イルカに触りたい」
「あれって順番待ちしなきゃならないんだろ?」
 琉太さんが困ったように顔をしかめる。彼は少しせっかちなところがあって、順番待ちをするのを異様に嫌がる。だから、食べるまでに並ばなければならないような店には絶対入らない。

「順番待ちっていうか……子ども優先かも」
「それって行ったって触れないかもしれないじゃないか」
「触れなくたって、ショーは見れるもん」
 なんでこんなにイルカにこだわっているのか自分でもわからない。そんなにイルカが好きってわけでもないし、水族館なんて十年以上行ってないのに。
「それより俺、遊園地行きたい」
「並ぶの嫌いなくせに」
「……だよなー」
 並ぶのが嫌いな琉太さんは、遊園地にも行きたがらない。一回一緒に行った時は、彼が会社を休んでわたしの平日休みに合わせて行ったんだっけ。

「それじゃあ、やっぱりうちでごろごろする?」
「夕方には帰るからね」
 日曜日の夕食に家にいなかったら、親の機嫌が悪くなる。結も大学に入っていろいろ忙しいみたいで、家族そろって夕食をとる回数も少なくなっていた。
「つまんねーの。俺、静ちゃんともっと一緒にいたい」
「……子どもですか?」
「違うけど」
 からかう口調で言ってやると、不満そうに彼は頬を膨らませる。そうすると、子どもっぽさが際立って見えた。
「だって、親に琉太さんのこと悪く思ってほしくないもん。もし……」
 そこでわたしはつまってしまった。もし、これから先、結婚なんてことを真面目に考えるようになった時にだらしない相手と付き合っていたなんて思ってほしくないんだけど――

 わたしのその思いは、琉太さんには伝わらなかったみたいだ。
「静ちゃんが一緒にいてくれないとつまらない」
「わたしだって、一緒にいたいけど。一緒にいたい……けど……親に会ってもらおうってなった時に琉太さんに嫌な思いしてほしくないもの」
 親に会う、という言葉に彼の表情が変わった。まずいことを口にしたかなって思ったのは次の瞬間だったけれど、出た言葉をひっこめることなんてできるはずもない。
「俺、親に会わないとだめかな」
「すぐに、とは言わないけど……」
 こちらの口調もあやふやなものになってしまう。

「あのね、わたしたちもう大人でしょ。このまま付き合っていたらそういうことになるかもしれないし、ならないかもしれないし……もし、いつかそういう気持ちになる日が来た時、くらいのつもりだったんだけど」
 やだな。自分の口調がものすごく嘘っぽく聞こえる。
「今日はもう帰るね。また、今度ゆっくり話そう」
 琉太さんの返事も聞かずに、荷物を適当に掴んで部屋を飛び出した。
 なんてことを言ってしまったんだろう。自己嫌悪の念だけが広がってくる。彼に結婚を迫るつもりなんてなかった。
 琉太さんの方は、まだその気がないことくらいわかって付き合っていたのに。わたしの一つ上なんて、男の人なら結婚を考えるのはまだまだ先だ。
 結局、彼からその日のうちに連絡が来ることはなかった。

 その週末は、いつもの通りに彼の家に泊まりに行っていた。部屋でDVDを見て、今日の夕食はいつもと違って和食。わたしが家で作って持って行った筑前煮がメイン。それにほうれん草のお浸しにお味噌汁。今頃家では家族が筑前煮を食べているはずだ。
「これ、静ちゃんが作ったの?」
「親も食べるっていうからまとめて作って置いて来たの。ここに持ってきたのはちょっとだけ」
「うまい!」
 ここのところ仕事が忙しくて、まともに食事してないっていうから気をきかせたつもりだった。だって、彼女だもん。
 琉太さんは、上出来の筑前煮をぱくぱくと食べて、わたしのお皿の分まで持って行ってしまった。

 自分がたくさん作ったものをおいしいって食べてくれたのは、とても嬉しかったけれど、その後洗い物を終えたわたしに彼は言った。
「俺、まだ結婚とか考えてないから――」
「やだなあ」
 わたしは笑ってみせた。
「この間のこと、気にしているの?」
「今日だって、煮物なんか持ってきて……前に比べたらずいぶん料理もうまくなったと思うし。この間来た時も、帰ってきたら夕食できてたしさ……」
 楽しんでやっていたつもりが、家庭的な女アピールに受け取られたみたいだ。
「それはここのキッチンに慣れたからでしょう。最初の頃は狭いし、コンロ一つしかないしでどうしたらいいのかばたばたしてたから」
 結婚を迫っていると思われた? それも何だか不愉快だ。

「あのね、琉太さん」
 わたしはできるだけ真剣な声を出した。
「わたしは琉太さんと一緒にいるの、とても好きよ? 琉太さんは結婚まで考えられないっていうけど、それは『今は考えてない』ってことでしょう? わたしも同じ。『今は考えてもない』のはわかってもらえないかな」
「……本当に?」
 ちらりと琉太さんはこちらを見る。その表情に何か違和感を覚えて、わたしはまっすぐに視線を合わせることができなかった。わたしの言いたいこと、たぶん彼には伝わってない。
 
 いったん、呼吸を整えてから、わたしはもう一度口を開いた。
「今は考えてないけど、そのうち結婚したくなるかもしれないじゃない? そうなった時に、洗濯できない、料理できないじゃ困ると思ってる。いつか一人暮らしだってしてみたいし。だから料理は頑張ってるよ。でも、それを『結婚を押しつけようとしている』って琉太さんが受け取るのなら、しばらく距離を置いた方がいいと思う」
 この間あった時から、どうもうまくいかない。たしかに『いつかは』って思ってないと言ったら嘘になるけれど、今すぐなんて誰も言ってないのに。
「今日は帰るね」
 わたしは荷物をまとめ始めた。この間も同じようなことをした気がする。

「帰るなよ」
 玄関で帰ろうとしているわたしを、琉太さんが引き留めた。
「今日は帰る。だって、わたしも琉太さんも冷静じゃないから」
 落ち着いて話をしたなら、また何か変わるのかもしれない。それに期待して、わたしは一度離れることにした。
 明日になればまた落ち着くかもしれない。
「水族館」
 靴を履いて扉に手をかけたわたしに琉太さんが言い募る。
「明日、水族館に行こう」
「……考えておく」
 それ以上は何も言わずに、わたしは彼の家を後にした。思うようにいかないな、と苦笑いしながら。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ