最後の女神




直哉との再会

 さすがに二十代も半ばになれば、琉太さんが気を使って水族館に行こうって言ってくれたことがわからないほどの子どもじゃない。だから、彼の方はこの件で別れるとか別れないとか、そういうことを考えるところまで到達していないのもわかっていた。
 ただ、わたしが素直になれなかっただけの話。
 家に帰った頃にはもう真夜中で、家族は寝静まっていたから足音を忍ばせてリビングに入った。彼の家で軽く洗ってきたタッパーを、もう一度洗ってから伏せておく。
 お風呂に入りたかったけれど、お湯が冷めかけていたから沸かしなおすのも面倒で,
シャワーだけ浴びてベッドに倒れ込んだ。

◆ ◆ ◆

「あら、昨日は友達のところに泊まってくるんじゃなかったの?」
 翌朝、ふらふらとリビングに出ていくと母が少し驚いたような顔をしていた。
「そのつもりだったんだけど、ちょっと言い合っちゃって」
 こう言えば親の方で察してくれるはず。
「あらあら。じゃあ今日はどうするの?」
「どうしようかなー」
「とにかく着替えて朝ごはん――じゃなかった、もうお昼近いんだけどどうする?」
「コーヒーだけでいい」
 誰もやってくれなかったので、自分でコーヒーをセットした。それから、急いで顔を洗って、髪を首の後ろで一つにまとめて戻ってくる。まだ頭がちゃんと働いていなくて、着替えるのは後回しにした。

 家の電話が鳴って、母がぱたぱたとそちらに向かってかけていく。固定電話にかかってくるのは珍しかったから、わたしはコーヒーカップを用意しながら何気なくそちらに視線を向けた。
「あら、そう? うちはいいけど……ずいぶん急なのね。で、電話どうしたの? 壊れた? じゃあショップに行ってらっしゃいよ」
 母の気安い口調からすると、相手は伯母さんなんだろう。わたしのその予想は大当たりで、戻ってきた母はエプロンに手をこすりつけながら言った。
「玲子さん携帯電話壊れたんですって。だから、アドレス帳見ながらこっちにかけてきたって。アドレス帳見るの何年振りだろうって笑ってたわ」
「それだけ?」
 いれたてのコーヒーを注いだカップを口に運ぶ。カフェインが身体に染みわたっていくような気がする。これを飲み終える頃には何とか動けそうだ。

「ううん。直哉君が今日こっちに来るって」
「何で?」
 声が裏返らなかったのが自分でもすごいと思う。直哉が戻ってくる理由なんて想像もできなかった。
「何でも本社に用があって金曜日からこっちに来てたそうよ。昨日は友達に会ってたらしいんだけど、帰る前にうちに顔出ししてくれるって」
「へー……」
 興味がないふりをしていたけれど、心臓が一気に跳ね上がる。直哉に会うことができるかもしれない――浅ましい期待が一気に膨れ上がって、それからわたしは慌てて首を振った。

「じゃ、わたしは出かけてこようかな」
 今、わたしが向き合うべきなのは直哉じゃなくて琉太さん。せっかく彼の方から気を使ってくれたんだから合わせないと。
「あら、ダメよ。先約でもあった? 昨日急に帰ってきたしキャンセルかと思ってたんだけど」
 タイミングよく、わたしの携帯がメールの着信を告げる。
「今起きた。遅くなったけど、会える?」
 そう書かれたメールにどう返事すべきかわからなくて、わたしは携帯を握りしめたまま立ち尽くしていた。

「だって、結もアルバイトでいないし、お父さんは休日出勤だし……わたししかいないっていうのもどうかと思うのよ。せっかく来てくれるのに」
 そう言えば、家の中がやけに静かだって思ったんだった。わたしと母しかいないのなら、静かでもしかたないか。
「……わかった。お昼ご飯?」
「ううん。お昼ご飯は食べてから来るって言ってたから、お茶の用意だけしておこうかしら」
 わたしは携帯電話を取り上げる。
「ごめんね。今日は行けません。母につかまって、出られなくなっちゃったの。また連絡する」
 そう打ち返したけれど、返事はなかった。

 昼食を終えてしばらくしてやってきた直哉は、前とそんなに変わったようには見えなかった。
 わたしは頭の中に琉太さんのことを思い浮かべて、一生懸命直哉を頭から追い払おうとする。そんなわたしをあざ笑うみたいに、直哉は転勤先の銘菓だというお菓子の箱を差し出した。
「お茶にしましょう。それともコーヒー?」
 リビングで母はパタパタと動き回っている。紅茶をいれて戻ってきた時には、わたしはお菓子の箱の中身を広げているところだった。

「フィナンシェとクッキー?」
「支社の子がこれが一番うまいって言うからさ。実家にも同じものを買ってきた」
「実家っていってもずいぶん変わったでしょう? 戸建てからマンションですものね」
 母はティーカップを直哉の前に置く。直哉は軽く頭を下げてそれを受け取った。
「いや、俺のベッドも運んでもらってあったし、そんなに変わった感じはしないかな。俺をさっさと追い出して一人立ちさせるために引っ越したんじゃないかって思うくらい親父も元気だし」
 そう言えば直哉は今回の転勤が初めての一人暮らしだったはず。大学も家から通っていたし。三十過ぎての一人暮らしってどんな感じなんだろう。

「ねえ、直哉兄さん」
「ん?」
「一人暮らしってどんな感じ?」
 わたしの質問の意味がわからないって言いたそうに直哉は眉を寄せた。
「わたしも一人暮らししてみたいなーって思ってるから」
「えー、それはだめよ。大学生の時にやったじゃない」
「あれは寮でしょ」
 横から口を突っ込んでくる母がちょっぴり邪魔だ。だけど母親を話題から締め出すわけにもいかないから、わたしはそれ以上のことはしなかった。

「そうだなー、家事が大変だ」
「わたし、料理できるようになった」
「料理は意外にどうでもいいんだよ。今は食べるところもいろいろあるしな」
 それを言われてしまえば、後の話が続かないのだけれど。けれど、直哉はきちんと話を続けようとしてくれたみたいだった。
「慣れるまでとにかく掃除が大変だった。何もしなくても汚れていくんだもんな」
「誰か手伝ってくれたりしないの?」
 また母が突っ込んでくる。直哉はそれにははは、と返すだけだった。ああ、やっぱりとわたしはそれを見て納得してしまう。

 たぶん、あちらに新しい彼女がいる。家事の大部分は彼女が担っているのだろう。昔から、そう言った点では妙に要領のいい人だった。
 わたしには関係のないことだから、と意識から締め出そうとする。目の前にいるのは、ただのいとこ。好きな人なんかじゃないし、身体の関係を持ったことも一度もないし、新しい彼女ができたのならそれは祝福してあげるべきこと。
 過去に起こった出来事を、なかったことになんてできないけれど、そうでもしないと母の前でうまく取り繕うことさえできそうもなかった。

 表面上は和やかに、久しぶりに訪ねてきてくれた親戚との会話が続けられる。やがて、時計を見た直哉が腰を上げた。
「静、直哉君をそこまで送ってきなさいよ」
 今日の最後の便で戻るという直哉を送るよう母に言われてわたしは彼と一緒に外に出た。
「じゃあ、そこのコンビニのところまでね」
「――おう」
 何か言いたそうに直哉の口元がひくつく。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
 彼の手が、上着のポケットに伸びる。そこに何が入っているんだろう。わたしが気にすることではないのかもしれないけど、よく見ればポケットが不自然にふくれている。
「そこ、何が入ってるの?」
 わたしがたずねると、直哉は慌てたようにポケットから手を放した。
「いや、これは何でもないんだ」
「……そう」
 結局、彼が何を言いたかったのか――それを聞くことはなかった。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ