最後の女神




とてもとても大切な

 今日ほど長谷川君に会うのが待ち遠しかったことはなかった。初めてデートする時みたいに、何度も何度も服装やメイクをチェックして、それでも納得できなくて着替えたりして結局家を出たのはぎりぎりの時間だった。
 少し遅れてしまって待ち合わせの場所まで走っていく。人混みの中、周囲の人より頭一つ出ている、彼の姿がぱっと目に飛び込んでくる。声をかけると、長谷川君は少し驚いたような表情を見せた。
「どうしたんですか?」
「……早く会いたかったのに遅れちゃったから。ごめんね」
「嬉しいです」
 素直に言うと、彼も素直に微笑み返してくれた。彼の表情にどきりとする。
 いつからこんなに男っぽい表情をするようになったんだろう。ずっと年下だってどこかで思っていたのに。

 手探りで彼の手を探して、ぎゅっと握りしめる。握った手は温かくて、その温もりがわたしをほっとさせてくれた。
「……今日……帰らなくても、いい……かな……?」
 その言葉を口にするのは、ちょっと勇気がいったけれど何とか口にすることができた。
「――本当に?」
 目を丸くして、長谷川君はわたしの顔を見る。そうやって目を丸くしていると、妙に子どもみたいな雰囲気になった。

「……嘘なんて、つかない」
「うわあ!」
 不意に大声を上げて、道端だというのに彼はわたしをぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「嬉しいです――すごく!」
「ちょっと待って!」
「すみません!」
 周囲にいる人の視線が突き刺さる。わたしが悲鳴を上げると、長谷川君は慌ててわたしを引き剥がした。

「すみません。あまりにも嬉しくて、つい」
 ここまで喜んでくれるとは思わなかった。だったら、もっと早くこうすればよかった。わたしの中でとっくに心は決まっていたんだから。
「……ご飯、食べに行く? それとも……」
 食事をするのももどかしかった。長谷川君の方も同じだったみたいだけれど、彼のお腹がぐう、と鳴る。
「ご飯、先に行こうか」
「……はい」
 ちょっぴり顔を赤くした彼を可愛い、と思ってしまった。

 いつもより慌ただしく食事をして連れて行かれたのは、彼の部屋だった。いきなりここまで来るなんて、あまりにもいろいろとばしてしまったような気がするけれど、後悔はしない。
「シャワー、使いますか」
 ここまで来てからも、長谷川君は敬語を崩そうとはしなかった。わたしは先にシャワーを借りることにする。
「これ使ってください」
 と渡されたのは、彼のものと思われる大きなTシャツと膝丈のパンツだった。部屋着までは持ってこなかったから、ありがたくそれを借りることにして浴室に向かう。

 熱いお湯を出して、中に頭をつっこんだ。――後悔してない? 大丈夫? 何度も繰り返して問いただすけれど、反対する声はなかった。絶対に後悔しないと断言できる。
「……大丈夫」
 いい香りのする泡に身を浸しながら繰り返す。直哉に会おうって言われた時だって、今付き合っている人を大切にしたいからって断ることができた。本人を目の前にしても。だから大丈夫。
 旅行用の化粧品を持ってきていたから、メイクを落とした後の顔をきちんと手入れして、髪を乾かしてから、部屋に戻る。

「……時間かかってごめんなさい」
 長谷川君は、ソファによりかかって雑誌を眺めているみたいだった。わたしの声に飛び上がるようにして振り返る。
「やっぱり俺の服じゃ大きいですね」
「……こういうのは、キライ?」
 何でもないただの質問だったのに、長谷川君は一気に耳まで赤くなった。わたしにも、彼の気持ちが伝わってくるようで、急に鼓動が跳ね上がる。
「お、俺もシャワー使ってきます! あの飲み物、冷蔵庫に入ってるので、勝手に開けてください!」
 慌ただしく彼が浴室に消えた後、彼の言葉に甘えて冷蔵庫を開けてみる。
 あまり自炊はしないみたいで冷蔵庫にはほとんど何も入っていなかった。発泡酒が何本かと、サワーの缶。ミネラルウォーター、麦茶のペットボトルは2リットルの大きなもの。あとは封を切った卵のパックに、チーズ、食パン。
 何でパンを冷蔵庫の中にしまっているんだろうと思いながらミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。側の棚にグラスがあったから、それにペットボトルの中身を注いだ。

 緊張しているみたいだ。ごくりと喉を鳴らして水が流れ落ちていく。あっという間にグラス一杯を空にしたところで、長谷川君が出てくる音がした。
 こういうの何て言うんだっけ、カラスの行水? おかしくなってしまって、飲み干したグラスにもう一度水を注いで、それを手にソファへと戻る。

「ずいぶん早かったね?」
 ソファから声をかけると、洗面台の方から彼が振り返る。濡れた髪が額に張りついているのが色っぽい。
「待たせちゃ行けないと思って!」
 ドライヤーを使って髪を乾かしながらも、焦っている返事が返ってくる。それからすぐに彼は部屋へと戻ってきた。
 髪はまだ生乾きで、いつもきちんとセットされているのにぺたりと倒れている。そうすると、実際の年齢より少し幼くなって、初めて顔を合わせた頃みたいだった。
 毎日が楽しいという学生時代の頃。一生懸命な彼がまぶしく見えたのを思い出す。

「何がおかしいんですか?」
 どうやら彼を見る顔がにやけてしまっていたみたいで、長谷川君は怪訝そうな表情になる。
「ううん、久しぶりに会った時にね、ずいぶん変わったって思ったの。だけど――そうでもなかったみたい」
「そんなことないです」
 わたしの言葉は、彼を満足させるにはいたらなかったようだ。彼はソファをぐるりと回ってくると、どしんとわたしの隣に乱暴に腰を落とした。
「俺は変わっていたいと思いますよ」
「……どうして?」
「大人になりたいです。あなたに釣り合えるくらいの大人に」

 彼のあんまりな言葉に、思わずくすくすと笑い出してしまった。
「何がおかしいんですか?」
 こんな時でも彼は怒らない。不思議そうにたずねるだけ。
「おかしいってわけじゃないの。だって、長谷川君は立派な大人でしょう? わたし……長谷川君のこと、すごく頼っているのに気がついてないのかなって」
「大地、です」
「大地?」
「僕の名前。いつまでも名字で呼ばないでください」
 長谷川君のフルネーム。忘れたわけじゃない。ちゃんと記憶しているけれど、それを口にしていいのかどうかで迷っていた。

「大地……大地……君」
「最初の方がいいです。年下じゃないような気になれるから」
 年上とか年下とか、そんなの関係ない。だって、わたしが好きになったのはあなたなんだから。そう言ってもきっと今の彼にはわかってもらえない。
 もっともっとお互いを知って、そうしたらわかってもらえると思うけれど。
「じゃあ、わたしのことは何て呼ぶの?」
「静さん……静ちゃん、……その……静……?」
 最後の方は語尾が震えて消えてしまうから可愛くなってしまう。その表情を見られたらまた気にしてしまうだろうから、わたしは彼の首に両手を回して引き寄せた。

「静、でいい。そう呼ぶ人って本当に少ないの。は――だ、大地……にそう呼んでもらえ――」
 最後まで口にすることができなかった。

 最後まで言えなかったのは、長谷川君――大地の唇がわたしの唇に押しつけられたから。力任せに押しつけられたおかげで、お互いの歯がぶつかり合いそうなくらいだった。
「だ、大地――」
 吐息混じりの声は、どうしてこう自分でもいやらしく響くんだろう。
「すみません、痛かったですか?」
「……痛くなんかない……」
 まだ、彼の敬語はくずれない。でも、そんなところまでがどうしようもいとおしくなってわたしは両腕を伸ばして精一杯彼の身体を抱きしめた。


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嫉妬する十年、恋する永遠へ