最後の女神




新しい恋

 本気モードになった時の人間って、とんでもない力を発揮するのだと思う。
 記念受験のつもりで、わたしは本命の大学よりランクが上の大学にも願書を出していた。親と相談して決めた第一志望の大学に行く前目指していた大学に。
 高校や予備校の先生たちと面談して、第一志望を変更した方がいいだろうという結論に達していた。

 それはそれでいい、と思っていたけれど記念受験でもいいじゃないか、受かればラッキーくらいのつもりで受験に向かった。
 全滅だけはないだろうと思っていたけれど、滑り止めを二つ落ち、本命は合格。そして記念受験した大学は――なんと合格していた。
 絶対に無理だろうと、わたしも母も思っていたから結果を見た時には驚いた。その後、どうするか真剣に悩む羽目に陥ったけれど。

 予定していた大学は家から一時間。そして、受かってしまった大学は二時間。通おうと思えば通えない範囲じゃないけれど……これはいいきっかけだ、とわたしの中で何かが囁いた。

「せっかくいいところに受かったんだし、しっかり勉強したいの。寮に入れないかな?」
「寮、ねぇ……それもいいかもしれないわね。その程度ならどうにかしてあげられるだろうし」
 大学の寮には入れなかったけれど、大学近くの女子専門の共同寮に入ることができた。新しいところで、設備もきれい。門限なんかも割と厳しくて、わたしを入れた両親も安心してたと思う。

 アルバイト先は、学校が斡旋してくれた学習塾にした。
 講師としてやっていく自信はあまりなかったけれど、最後の追い込みでどれだけ成績を上げたかっていう経験が他の生徒の役に立つならそれはそれでいいんじゃないかと思った。
 追い込みの裏に隠された自分の醜い本音は目をつぶって見なかったことにして。

「やっぱり大学生活充実させたかったら、何かやるべきでしょ?」
 そう言ってサークルに誘ってくれたのは、同じ大学で同じ寮に入っている有紀ちゃんだった。背が高くて美人。染めていない髪はパーマもかけないで、まっすぐのまま。けれど、くっきりはっきりした顔立ちによく似合っていた。

 わたしは高校を卒業してすぐパーマをかけていたから、肩のあたりで髪をふわふわとさせている。ピアスもあけて、メイクも堂々とするようになって、少し大人になった気分だった。
「静ちゃん? 俺、高倉洋治」
 新歓コンパの席でおとなしく烏龍茶を手に端に座っているわたしに声をかけてくれたのが、初めての彼氏になった人だった。
「連絡先、教えてもらってもいい?」
「……わたしでいいんですか?」
 そう返したのは、いとことの暗い記憶がまざまざと残っているから。彼女がいるのに他の女に手を出すような男と寝てました、なんてこの人には言えない。絶対に。

「もちろん。可愛いって思ったから声かけたんだし」
 素直な賛辞。わたしが望んでも与えられなかったもの。それを惜しげもなく与えられて、アルコールを飲んでいないのに頬に血が上る。
 こういった場に慣れていないのがばればれだなぁ。視線をずらして、烏龍茶のグラスを手に取る。
 わたしが何も言わなかったから、彼は困ったような顔になった。
「ひょっとして、俺の方が迷惑だった? 無理やり聞くつもりはないんだけど……」
「い、いやじゃないですっ! ごめんなさいっ、よろしくお願いしますっ!」
 焦ったものだから、大きな声を出してしまった。ざわざわしていた室内の面々の視線が、一気にこちらに突き刺さる。

「なんだよー、もうカップル成立か?」
 誰かがからかうような声を上げる。
「違うってー!」
 洋治君が叫び返す。その場はそれでおさまったように思えたのだけれど、わたしはますます縮こまってしまった。うながされて携帯電話を取り出し、赤外線通信で連絡先を交換する。
「あの、先輩」
「洋司でいい」
「洋司さん」
「せめて『君』にしない?」
「それは……恥ずかしい、かも……」

 高校は共学だったけれど、同級生の男の子たちは子どもっぽく思えていたから彼らへの接し方はあくまでも同級生に対するものでそれ以上の関係になった人はいない。
 直哉に比べれば同級生が子どもなのはごく当然のことだったけれど、わたしがそんなことに気づいているはずもなくて、同級生の男の子たちに相手にされないのも当然と言えば当然だった。
 こんな風に声をかけてくれたのは彼が初めてで、慣れないことにどう対応すればいいのかわからない。

 結局、その場の流れはわたしと洋司君を仲良くさせようという風に意見が一致したようで、帰り際にわたしと有紀ちゃんを学生会館まで送るように言われたのは洋治君だった。
「ごめんなさい。遠回りで迷惑ですよね?」
「そんなことないよ、俺、もう少し静ちゃんと話してみたかったし」
 そう言ってあまりにもあっけらかんと笑うから、わたしはぽかんとしてしまった。
 十も上の直哉相手にはとても身構えていたのに、この人の隣だと何だかすごく楽に呼吸ができそう。実際、心臓がどきどきすることはなくて胸がぽかぽかしてくる。

「んもー、わたしが邪魔者みたいっ」
 有紀ちゃんがわざと頬を膨らませて見せた。
「そんなことないよ!」
 慌てて言うと、有紀ちゃんもけらけらと笑った。
「せんぱーい、わたし、ちょっと先に行きますね。静のことよろしく」
 ちょっと先、の言葉通り有紀ちゃんは数歩先を行く。わたしたちと行動は一緒にしているけれど、話には入らないよという意思表示みたいに。
「よかったら、さ。今度二人で会えない?」
 そうか、こういうのが普通なのか。ちょっと押され気味ではあったけれど、わたしも彼には好感触だったから、誘いを喜んで受け入れた。

 わたしと洋治君が付き合っていると周囲が認識するまで一月もかからなかった。わたしたちもそのつもりでいた。
 彼からあえて「付き合ってほしい」の言葉はもらえなかったけれど、サークルのたまり場で集まる時も飲み会の時も常に隣同士の席だった。
 背伸びしないでいい、気楽な関係。そこにはどろどろしたものはいっさいなくて、ふわふわした心地よさがあるだけ。

 洋治君は読書が好きだ、と言っていた。でも学生の身でそんなにしょっちゅう新刊は買えない――とも。
 そんな彼とのデートは、図書館での静かな時間だったり、チェーンの古本屋めぐりだったり、学校近くの小さな映画館だったり。時には、一人暮らしの彼が二人分のお弁当を作ってくれて、学校近くの土手で過ごすこともあった。
 初めてのキスはその土手だった。目の前を自転車に乗った人が軽やかに走り抜けていったそのすぐ後。
 触れているのかいないのかわからないくらいにそっと与えられたそれに、みっともないくらいに身体は反応していた。

 それを知られたくなくて、そっと身を引く。恥ずかしくて、正面から顔を見ることができなかった。
 洋司君がそれをどう判断したのかわからない。わたしの髪を柔らかな手つきで撫でる。
「今夜泊まっていけない?」
「……ごめんなさい」
 泊まっていく、が何を意味するのかわからないふりをするつもりはなかった。望まれているのは嬉しかった――心から。
「寮に外泊届を出さないで外泊すると、後が大変なの。この間親に連絡された子がいて……」
 月の外泊の回数まで決められているわけではないけれど、あまり頻繁に朝帰りすれば親に連絡されることになりかねない。

「だけど……門限、零時だから……」
 だから、それまでなら一緒にいられる。少しの時間でいいから側にいさせてほしい。そう願いながら口にすると、洋治君は嬉しそうにわたしの手を握りしめた。


前へ 次へ


嫉妬する十年、恋する永遠へ